ロンドン旅行-ウェストミンスター寺院

ヴィクトリア通りを抜けてウェストミンスター寺院に行きました。


ウェストミンスター寺院

ウェストミンスター寺院(出口側)

この寺院は10世紀に建立されたようです。ガイドによれば1066年にウィリアム征服王が戴冠式を初めておこない、現代も当時使われた椅子が戴冠式の際には使われているようです。ここでは歴代の王・王女や政治家などが埋葬されており、建物内の床には埋葬されている人の名前が記されています。ニュートンやダーウィンなど著名人の名前がありましたが、その中に「Edward Bulwer Lytton」というどこかで見たような名前があったので、後日調べました。

Westminster Abbeyのホームページには「Edward Bulwer Lytton」が埋葬されている、とあります。彼の代表作に「ポンペイ最後の日(The Last Days of Pompeii)」があり、有名な「ペンは剣よりも強し」という格言は彼の戯曲「Richelieu」で生まれたようです。この人の一人息子が後に初代リットン伯爵になるエドワード・ロバートで、さらにその息子が第2代リットン伯爵となって、後にFMアレクサンダー氏と深い関わりを持つことになります。

第2代リットン伯爵、ヴィクター・ブルワー=リットンは英国の政治家でインドの総督でした。日本との関わりから見ると、満州事変の際に「リットン調査団」の団長として、彼は国際連盟から派遣されます。当時は満州だけでなく日本や中国も視察したようです。調査団のレポートは「リットン報告書」として日本語で全文読むことができます。

そんなリットン伯爵とFM氏との関係は、「South African Libel Case 1948」の第3巻に現れています。アレクサンダーテクニーク界隈では南アフリカでの有名な裁判ですが、そこにリットン伯爵も証人として尋問されました。(pp.833-854)この裁判記録の全文はおよそ1,400ページほどで読むのは大変ですが、裁判に提出された資料は興味深いものです。

リットン伯爵が初めてFM氏のワークを知ったときについて証言しています。

……ある友人からFM氏の著作の一冊をもらい、そのときは結婚生活の初期にあたりますが、しかし私は彼と当時出会っていませんでした。……ある若いインドの役人が体調を国内で崩して私の所にやってきました。……彼はお別れを私に言いに来たのです、私は……誰か英国内で彼の健康を回復できる人を探すことを主張しました。彼がインドに帰ってくると、生まれ変わったその男は幸せそうに元気で、すっかり自分の仕事をできるようになっていました。私は彼に尋ねました、どうやってこんなふうになったのかと、そのとき彼はアレクサンダー氏について話したのです。

Souch African Libel Case, p.834

このときにFM氏のことを聞いたリットン伯爵は1926年にFM氏の所へ訪問し、「私はシモンズ君[役人]と会いました、あなたが彼にしたことを見たのです。それで、もしあなたが私を助けられるならと、私は会う気になったのです。」と話しています(p.835)。伯爵の詳細な証言は「African Libel Case」を見てもらえるとわかります。編集者の紹介文をみると、この裁判記録は原本の複写(全11巻、2,232ページ)から修正を加えて8年間かけて書き起こしたもののようです。興味をお持ちの方がいたらMouritz社から購入できます(South African Libel Case 1948, Vols. 1-4)。

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