第一部 「追放」されたフレデリック=マサイアス=アレクサンダーの祖父母、アレクサンダーのタスマニア島・豪州時代(1869年から1904年)、最初の発声法と呼吸法

1824年、豪雨が英国ウィルトシャー州ランズベリー周辺の穀物を壊滅させた。そして病気が多くの羊達を殺した。翌年はさらにひどくなった。絶望が飢饉によって前面に浮き彫りなることを強く意識したランズベリーの村民は質素な慣習的権利さえ急速に蝕まれた。18世紀の中頃、そこでは避けることのできない転換が大地主と大農に生じ、彼らの貧困が彼らに地主や農民の土地を耕すことを生活のために強いていた。18世紀の土地囲い込み諸法は、最後に残された古くからある権利となる自由な放牧と燃料収集を貧民がすることをやめさせた。1830年までに、ランズベリーと他の英国にある村は厳しい地域となった。

1830年1月1日、ケント州オーピントンにある農民の土地は破壊され、記録によるとその発端はいわゆるスウィング暴動であった。1830年の夏を通してケント州では、多数の干し草を燃やした炎が引き金となって自発的な暴動が拡大し社会的で経済的な状況に逆らった。目撃者の報告では、ジョセフ=アレクサンダーとマサイアス=アレクサンダーが1930年11月22日の暴動に参加したとある。逮捕後に裁判を受け、彼らはヴァン・ディーメンズ・ランド(タスマニア島)に国外追放で7年にわたる服役となり、彼らの刑を遠回しに言えば「流刑」とされた。4年半後の1835年6月1日、マサイアスは仮釈放許可証を与えられたというのも模範囚だったためだ。1835年8月26日、ジョセフも同じ許可証を受け取った。彼らは労役から解放され、自分自身で稼ぐ仕事を見つけられるようになったが、今や新天地にいる。その後1年を待たずして、アレクサンダー兄弟は恩赦を得たと伝えられた。ジョセフとマサイアスは決意しタスマニア島に留まることにした。彼らの移住したテーブルケープは、ウィンヤードのそばにあり、イングリス川の土手である。マサイアスは1865年に死去した。彼の土地は5人の息子らに相続された。

フレデリック=マサイアス=アレクサンダーは、マサイアス=アレクサンダーの初孫であり、病弱な子供だったのは1869年に早産のときからだ。彼には呼吸問題に悩まされたというエピソードがあるが、おそらく喘息と思われる。あるいは、これらの問題が男性教師とアレクサンダーの父との取り決めで、少年を夕方に指導することに導いたものかもしれない。残されている子ども時代の情報はほとんどない。我々の抽出しなければならない見解があり、どのような土壌が、彼の共同体が、そして家族が彼に影響を与えたのか、ということさえも形跡の断片から取り出すことである。彼の著作集のどこにも生涯に関する記述はなく、F.M.アレクサンダーの言葉で珍しい地質の化石岩で形成されているところだ、とウィンヤードのフォッシルブラフについて記載されていない。また彼は家族が受刑者だった歴史にも言及しなかった。欠けているものは同様に、ついでに述べられている彼の弟妹や父母や親類の誰かとか友人のこと以外にもある。この沈黙が伝えることがある。アレクサンダーという人間は、19世紀後半のタスマニアと豪州の時代精神(Zeitgeist)を持ち合わせ、受刑者の子孫の意思を含む目に見えない汚点を持って全体像を成していたのである。

1885年、16歳のアレクサンダーが提供された仕事は見習会計士であり、ウォラタのスズ鉱業会社で働くことだった。ウォラタに行くことが意味したのは、男性優位の共同体である過酷な開拓採鉱の町に入るということだ。暴力と飲酒が一般に蔓延っており(およそ半分の町の収益は酒税から得ていた)、そこにいた少数の女性に向かう蛮行が広く及んでいた。アレクサンダーはそのスズ鉱業会社で3年間働いた。

かつて賃金労働者だった彼はタスマニア島外から来た多くの男性移住者らに加わった。1888年、彼はメルボルンに移住した。アレクサンダーは将来的に故郷よりも他のどこかで埋葬されるのだ、そして肉親が直接的に彼の将来に関わることはないのだ、と信じるようになっていた。彼は自分の過去を洗い流したのだ。受刑者の家族史に全ての権利をはぎ取られることはなくなった。目に見えない汚点もなくなり、ほとんど過去もない。従ってそこで除外されるのは、面倒を見ていた拡大家族であり、すなわち母、妹、弟たちだ。

メルボルンは豪州の第二の大都市であり、「南のシカゴ」と言われ、アレクサンダーは職業として朗誦家を望んだ。メルボルンがさらに彼の過去との関係を断ち切ったのだろう。彼が18歳の時、彼には記憶に残るメルボルンの友人はいなかった。

彼の入り込んでいった人生の第二段階は、属したことのないものだった。彼はアマチュア演劇クラブに加わって、そこで準備を行った職業は本当にやりたかったことであり、すなわち彼は朗誦家になると決意したのだ。彼の参加したアマチュア公演会はいわゆる応接間舞台劇に含まれるものだ。1892年、彼の勝ち取った対話劇部門の予選はビクトリアン・アマチュア・コンペティション協会主催のコンテストである。その受賞が意味することは、彼は上手に豪州訛りのアクセントを隠し、当時は英国上流階級のアクセントを話していたということだ。彼のレパートリーには自作のポエムが含まれており、その題名は『マサイアスの夢、ブーゴマスター』と付けられた。その作意は自責、自罰、死、催眠力であり、つまり夢のような意識状態だった。アレクサンダーの文章がまとめる豪州の時代精神を持つ前途有望な男の観念形態は、1890年代メルボルンの大衆紙の中で反映したものだ。

1894年初頭、アレクサンダーがタスマニア島に帰ったのは連続公演のためであり、数多の好評を博した。1894年7月9日付『ホバート・マーキュリー紙』で発表した「発声法としての一つの嗜み」は記事型広告で、アレクサンダーの署名入りで出された。その記事にあるアレクサンダーの言葉によると、彼は「自然な発声法専門家」として知られたかったようだ。ホバート逗留中、アレクサンダーは数回のリサイタルを夕方におこなった、と『ホバート・マーキュリー紙』で報告されている。1895年、彼はニュージーランドで巡業し、その始まりはクライストチャーチからだった。6ヶ月の間オークランドに滞在し、彼のニュージーランドツアーを終えた。1895年7月20日付『オークランド・スター紙』で発表した「演説文化と自然な発声法」は広告型記事であり、そこで見せているのはアレクサンダーが勝手に他の発声法に関する文章から拝借して、不十分な帰属性と合わせて取り入れていることだ。アレクサンダーはリサイタルをおこないながらフルタイムの教師として発声法を教えていた。1895年末までには、アレクサンダーはオークランドから去っており、その理由は家族との約束だったからである。

残りの豪州時代の1904年まで、つまりアレクサンダーが豪州からロンドンに移住する時まで、分割されうる二つの期間がおよそ4年間ずつあり、それぞれの都市で彼が暮らしていた頃だ。彼が豪州に到着した1895年後半から、彼はメルボルンに居住し、そこで彼が実際に始めた職業は呼吸法の教師である。1900年初頭から、彼はシドニーに居住した。

1896年、アレクサンダーはどうにか安定した暮らしをメルボルンで送っていた。たまに彼はリサイタルをおこなったが、1898年のかなり早くに、劇場プロデューサーとしての仕事を一時的に引き受けていた。1900年2月、彼はシドニーに移り、そこで彼の継続していた日常の仕事は、彼が訓練したメルボルンで「自然な発声法の養成」を主催・実演・教授することだった。教授される発声法は19世紀後半の豪州において洗練された音声を確立している時代精神に訴えたものであり、表しているのは憧れを大英帝国の上位中産階級に持つことと豪州の内政自治という独立の熱望の両者である。残念なことに、断片やその裏表紙を別にすれば、1900年7月のパンフレットでアレクサンダーの発表した彼の手法は不明のままである。裏表紙の広告では、アレクサンダーが「いっぱいに胸を満たす呼吸法」を教えていた、とある。その呼吸法は豪州やヨーロッパや北米で世紀の境目にある時代精神の生活に対する呼吸の考えを反映するものだ。

1901年、アレクサンダーは、発声法の生徒の力を借り、「ヴェニスの商人」と「ハムレット」をシドニーで上演し、豪州の都市で巡業を開始した。彼は興奮しながら自分の生徒が公で上演したことを思い出した。1902年2月、彼が教え始めたのは、彼が新しく設立し仰々しく名付けられたシドニー・ドラマティック・アンド・オペラティック・コンセルヴァトワールで、その最初の学期だった。デルサルト・システムが主な特色として宣伝された課程の中に存在した。1903年、アレクサンダーと多数の生徒は再び巡業をおこなった。

1903年12月初頭、彼は出版される自分の手法に関する書籍を売り込む一つのよく練られた広告キャンペーンに乗り出し新聞記事を掲載し、そこに含まれていたのは彼の手法は結核治療において有益になりうるというものだった。

1904年4月13日、アフリック号がシドニーからロンドンへ出航した。船上にはアレクサンダーがおり、その手にはロンドンの医師へ紹介する手紙を携えていた。

← 読み物

ホーム