第二部 英国におけるアレクサンダーの暮らし(1904年から1910年)、さらに発展させた呼吸法と確立させたそれらの手法に対する理論的基盤
いくらかの詳細が1904年から1910年のアレクサンダーの生活に関連して入手可能だ。1904年、彼はロンドンで呼吸のレッスンスタジオを開設した。彼には急速に打ち立てた評判がロンドンの演劇専門家の間にあった。1904年10月19日付『デイリー・エクスプレス紙』の引用したアレクサンダーの意見は、呼吸教師として取り上げられた。スケインズ=スパイサー医師は数人の医者の中で最初に患者をアレクサンダーに任せた人だ。英国に到着して数ヶ月の内に、彼は自分自身がロンドン市民になり、尊敬された職業専門家として発声技術と声のかれや他の発声に関する問題を治療する人に成長したのだとわかった。1906年3月24日付『オンルッカー紙』で描かれたアレクサンダーは人類学者であり、教えていた呼吸法の基礎に彼の観察したマオリ族を置いていると表現された。
1906年から1910年末までの間、アレクサンダーの作った11冊のパンフレットがある。これらが示す主な計画は、さらに公に向けて彼の実践に関心を持ってもらうためである。それらの及ぼしたほんのわずかな光が彼の実際に教えていたことに当てられただけだった。加えて、彼の書いた3通の書簡が医療雑誌や新聞の編集長宛に送られ、それらは掲載に至った。
継続的に自分で改訂と書き換えをパンフレットへおこなうことで、アレクサンダーは自分自身の感情的で職業的な生まれ変わりの助産婦役となった。彼の渡ってきた大海原は正反対の豪州やタスマニア島にある都市や風景を新しい故郷へ結びつけている。その航海は実際的にも比喩的にもおこなわれた。ロンドンは再び彼の故郷となり、凱旋してきた英雄は、マオリ族との交流をこしらえることで、浄化し美化された。まさにその時代、連合王国の人々が折り合いを付けて征服した人々や文化的思潮と和解した頃で、彼の伝えたもっともらしい物語風の作り話が道標となり、彼の過去にある不必要な部分を洗い流している。
1906年のパンフレットはさらに重要だと言え、それは他の広告用パンフレット以上である。その中で私達の発見できるのは、アレクサンダーの発展に及ぼしたハリー=キャンベル、ウィリアム=シェイクスピア 、ウィリアム=エイキン、デイヴィッド=フランコン-デイビス、レジナルド=オースティンの影響だ。この時期、彼の「呼吸を再教育する」手法は循環的な道筋であり、それには付随して教授される概念として調整をしながら同期する最適な呼吸と最適な発声がある。次に到達することは、意識的調整を横隔膜脚と腹直筋の上部に意志作用による手段を経て及ぼすことだ。アレクサンダーの目論みでは、習得される調整能力で弛緩と収縮をする腹直筋の上端が機構的な有利さを生み出し呼気の始まりと終わりでそれが生じるということだ。これはしかしながら、単に最も有利になりうる可能性であり、肉体にある他の部位も同様に扱われ、ある意味でそれらが干渉されずに「実際的に働かせている本当に第一の動作が各々の毎度の行為に生じる」ときに生じるもので、用いられるアレクサンダーの主要な言い回しを呼吸周期に向けるためだ。
1907年発行のパフレットが伝えてくる郷愁は失われた理想に向けられるものであり、またそこで示しているアレクサンダーの信念は継承される習慣において綿密にサミュエル=バトラーの進化論に対応しており、可能性として非常に急速な転換が一世代で生じることを許容している。
1908年前半、アレクサンダーと婦人参政権論者のエヴリン=グローバーが書いた『時間の問題(一幕の喜劇)』がある。そのメロドラマ風の応接間喜劇は一度も上演されることはなかった。1908年9月、『ポール・モール・ガゼット紙』で公表された文通が編集長に宛てに出されており、アーサー=ラヴェル及び彼の支持者J.W.ウィリアムズとアレクサンダーの支持者ヘンリー=G.デイビスとの間でおこなわれ、ラヴェルとアレクサンダー各自の取り組む呼吸の教えについて交わしている。同じく1908年、メルボルン大学トリニティカレッジ学長アレクサンダー=リーパー博士が作るように託された報告書は、英国における様々な体系的な身体訓練に関するものであり、彼はアレクサンダーの教室に来訪した。リーパーの報告書は、1909年3月に発表され、「第一にF.マサイアス=アレクサンダーの名が関連付いた体系を」と伝えた。
1909年発行のパンフレットとその1910年の補足が示唆していることがあり、アレクサンダーがおそらく影響を受けているのは様々な舞台芸術の教育学や機能解剖学の文献によるものであり、そしてボストニアン・エマニュエル運動の1908年の心霊的な運動再教育に関する見解からも影響を受けており、それは『信仰と医学』の中で解説されているものだ。これらの影響はしかしながら、決定的に詳細な説明をするには難しく、全般的な欠落が参照する情報源に認められる。
いくつかの1909年と1910年の文章はスパイサー医師に向けて難色が示されたものだ。アレクサンダーの主張では、1910年以前に彼とスパイサーとの間で不和があったということだ。彼がほのめかしたのは、スパイサーがいくつかの出版物の中で自分から剽窃しているというものだった。アレクサンダーの信じていたところでは、スパイサーが実演していたその手法は医学関係の観衆に向けておこなわれたもので、まるでそれらがその医師の発明であるかのようになされた、と思っていた。