第三部 英国と米国におけるアレクサンダーの暮らし(1910年から1955年)、どのようにアレクサンダーは姿勢法を発展させ、いわゆるアレクサンダーテクニークの理論的基盤を確立したのか

アレクサンダーの第一冊目の著作が出版されたのは1910年だ。もはや有益な発声法のレッスンを宣伝するのではなく、『人類の最高遺産』で彼の結びつけた実践はより大きな規模に向けられおり、「強制された進化自体に逆らう潜在能力」について述べながら、優生学を宣伝し、たとえ継承される習慣の優生学だとしても、それをおこなった。核心部となるアレクサンダーの優生学の中身は彼の理解している人間進化における抑制意識的調整の役割である。アレクサンダーの信じていたところでは、人間の中には「潜在意識的な動物能力」を意識的に抑制する能力があり、そこで「肉体に受け継がれている」ものとしており、実際にはいくらかの動物にもあるが、「しかし、ヒトがこの可能性を発揮するとなると、実体験を積み重ね、意識的な使い方をして初めてこの素晴らしい力学になる」と思っている。アレクサンダーがほのめかしたことは、この肉体に受け継がれてきた能力が増強され作り替えられるだけでなく、新しく習得した習慣の調整能力も子孫に引き継がれるだろうということだった。

1911年3月発行『人類の最高遺産(追補)』は全体にわたって織り交ぜた含蓄があり、アレクサンダーの手法である意識的調整が医学的問題に衝撃を与え、そこに虫垂炎や癌を含めている。興味深いことに、ある動作の「第一義的な原理」がアレクサンダーの手法にあり、彼の説明では、許された「重力の推進力」は足首で始まると述べた。1912年発行『意識的調整』のパンフレットはアレクサンダーの『人類の最高遺産』を要約し、優生学色の混ざった態度と彼の主張する「意識的調整の原理が構成要素となって確実な改善を病気におこなう」ということをまとめた。そこで描写される優生学的な理想郷は彼の「精神療法」を称賛している。パンフレットの締めくくりでは、アレクサンダーは他の手法を貶し、そして応用される彼の手法を解説した事例では、自分で脊椎を短くしている人、腕を怪我した俳優、スイングを練習しているゴルフ選手が登場する。

1912年、アレクサンダーは昔からの家族を集め彼を手助けしてもらい、さらにそこへ加わった彼の個人助手はエセル=ウェッブであり、彼女は元音楽教師だった。ウェッブは最初の個人的な弟子の一人となり、そんな弟子達は自分の生涯を捧げて「アレクサンダーテクニーク」となるものに専念した人達だ。ウェッブの主な職務の一つは教授している練習生を補助したり、アレクサンダーが編集する彼自身の様々な文章を手助けすることだった。ウェッブにとって都合がよかったと思われることは、アレクサンダーの弟「AR」が副指導者となり、妹のエイミーは結婚する1914年まで手伝っていたということだ。ウェッブは好んで裏方に留まっていた。

1914年中頃、大英帝国は開戦を宣言した。すぐさまクライアント数は急激に落ち込んだ。エイミーの夫とアレクサンダーが始めたことは組織化して、うまく家族経営することだった。アレクサンダーは友人のロバート=ヤングの未亡人イーディス(ペイジ)と結婚した。1914年9月12日、彼はルシタニア号に乗り、9月17日、ウェッブと共に、米国へ足を踏み入れた。当時のアレクサンダーは、拡大家族であるために、自分自身を立て直してもう一度、無名でさらに別の大都市でやり直さねばならなかったが、さらにもう一つ見出していたことがあり、見知らぬ人の方が親しい人よりも好ましい存在になるということだった。ニューヨークには、教育改革の先導者であるマーガレット=ナウムブルグがおり、彼女はアレクサンダーをウェッブから紹介され、エセックス・ホテルで彼の営業の確立を手助けした。アレクサンダーは、1914年から1924年の間(1922年の冬を除く)、冬をニューヨークで過ごし、そこでとてもよく稼ぎ、そして夏に過ごしたロンドンでは、教授しながら家庭生活と友人に恵まれている。1916年初頭、アレクサンダーはジョン=デューイと出会い、デューイは一人のクライアントとなった。まもなく他のニューヨーク在住の学者やデューイのコロンビア大学の同僚が続いたであろう。同年、アイリーン=タスカー、彼女もまたアレクサンダーへ最初の紹介をウェッブからされており、そんな彼女がアレクサンダーの第二助手としてウェッブと共に仲間になった。タスカーはそれまで児童向けの家庭教師であり、ケンブリッジ大学出身の彼女は、コロンビア教師養成大学でデューイの講義に出席した。ウェッブのように、彼女の主な職務は裏方だった。

増補された米国版『人類の最高遺産』が1918年に発売された。1918年12月、書き直された英国版『人類の最高遺産』が出版された。英国版が出版されたとき、アレクサンダーはロンドンを離れており、1919年の冬をニューヨークで過ごしながら、うまく稼いでいた。資産は米国の株式売買に投資されていた。1919年夏、ジェラルド=スタンリー=リーがアレクサンダーのレッスンを受けた。リーはアレクサンダーの進化主義と継承される習慣の優生学に刺激された。リー著『亡霊のいるホワイトハウス(1920)』で、リーはアレクサンダーを称賛し、「アレクサンダー流」を「ひとつの国家をまとめること」に例えている。リー著『目に見えない訓練(1922)』で、リーが説明したのは「アレクサンダー流」訓練であり、例えば、横になる訓練、座る訓練、立ち上がること、歩くことのようなものだ。

1922年、アレクサンダーはロンドンで教えた。新しい英国人のクライアントの中にはピーター=マクドナルド医師がいた。1923年、マクドナルドは既に英国医師会の年次総会でアレクサンダーの手法を宣伝していたと思われる。アレクサンダーは1923年の冬を米国で過ごし、『建設的に意識調整するヒト』の草稿を書き終えている。この新しい著作で主に述べていることは、応用される「手段を吟味する(means-whereby)」原理とそれと対比される「結果をすぐに得ようとする(end-gaining)」原理である。解説される手順は、方向付けられている頭が前に行くので上に行く、緩む首、広くなる背中、長くした背中、これらが椅子に座ることや椅子に座っている最中に前に置かれたイスの背面の最上部の横棒を掴む状況で生じ、そして彼の強調している手法として手段を吟味すること抑制、それが呼吸をしている場面でなされる。同様に解説していることがあり、どのように「感覚的評価」が「人類の要求」と「己を知ること」に関わるのかを述べている。

我々が間接的に聞いている時期1924年と1929年の間から、アレクサンダーはゆとりある生活を過ごした。彼は米国で得た資金を米国株式市場に投資していた。1925年まで、この投資と授業料は彼にファームハウスを買えるほど十分な収入を与えており、ケント州にあるその家は、シドカップ駅の近くにあった。彼は継続的に授業をしており、ロンドンのアシュリー・プレイス街16番地を本拠としていた。彼の妻イーディスと養女のペギー、そしてアレクサンダー自身はペンヒルに移り、そのケント州のファームハウスに引っ越した。

1924年、アレクサンダーの助手アイリーン=タスカーは彼にアシュリー・プレイスの一室を子どもの教室に転換することを頼んだ。1925年、設立された小さな学校はその部屋を「本物の」小学校に作り替えられ、その部屋にタスカーは「リトル・スクール」と称した。通っている子ども達は全員、特別な注意を彼らの特別な必要性に払う必要がある子ども達だと識別された子らだ。実際に、リトル・スクールに対する理論的根拠をアレクサンダーの視点から見ると、進化論や「民族文化と子どもの訓練」を実験するためであり、優生学としてその解説は二作品の著作でおこなわれたものだ。

1925年2月19日、アレクサンダーはロンドン児童研究会で講義をおこなった。その日から、医師の友人達、ダグラス、マクドナルド、マクドナー、イヤーズリーらが発表した多数の記事や手紙で彼の手法に言及した。このような友人達が作り上げたのが真の意味で引証していく共同体だった。

しかしながら、暗雲が近づいていた。1929年までにアレクサンダーの結婚生活は破綻している。彼の妻と養女はペンヒルを出て行き、ロンドンのメイダ・ヴェールのフラット式住宅へ引っ越した。1929年秋、ウォール街大暴落が世界中を襲い、そこにアレクサンダーも含まれている。彼の株は価値を落とし、クライアント数も急落した。

『自己の使い方』という彼の三冊目の著作が1931年秋に発売された。始まりの章で伝えるのは、彼の「テクニーク」を発見する物語だ。その物語が提供する詳細に説明された歴史的な段階は、彼の取り上げた話は呼吸問題の克服と言われている。教師養成コース(1931年設立)の練習生は、自分自身の問題をこの著作にある物語に照らして実験できただろう。アレクサンダーの紹介した新しい概念「初めに起こる大事な調整(primary control)」があるが、全般的な概要は1925年の講義で説明されていた。最終章で提供する助言は医師の医療的な訓練に向けられている。

1934年8月3日、アレクサンダーはベッドフォード体育教師養成大学で講義をおこなった。彼は「初めに起こる大事な調整」の価値について説明を若い女性に向けておこない、数名の大学生と共に彼のテクニークを実際にやってみせた。

1940年6月、アレクサンダーは英国を逃れてカナダのトロントへ向かうことを決心した。1940年7月5日、アレクサンダー、リトル・スクールのスタッフ、その学校の児童はモナーク・オブ・バミューダ号に乗り込んでグラスゴーを出発した。その護送船団がカナダのハリファックスに到着したのは1940年7月11日だ。1941年1月、マサチューセッツ州ストーにあるホイットニー・ホームステッドがアレクサンダー・トラストに引き渡されたが、これは無償でなされた。子ども達とリトル・スクールの教師らはホイットニー・ホームステッドに1942年9月まで滞在した。

アレクサンダーは1941年の夏をマサチューセッツ州のストーで過ごした。アーサー=ブッシュ(別名マーチ)はストーを訪れ、彼とアレクサンダーは統合広告キャンペーンを新しい著作のために計画した。ブッシュの発表した記事は『フー誌』9月号に掲載された。1941年10月3日、『いつでも穏やかに暮らすには』というアレクサンダーの4冊目の著作はマーチ著『新しいやり方で暮らす』の出版と連携して発売され、その出版は広告ビラと一斉におこなわれた。アレクサンダーの4冊目の著作は彼の手法に関する評論集を提供した。

アレクサンダーがニューヨークに戻ったのは1941年10月中旬のことだ。11月、彼はダッチ・トリート・クラブで一席弁じた。これは成功していたと示されており、その講演はクライアント達をもたらしたものだ。殺到したクライアント達から鑑みると、彼がニューヨークで教えたのは1942年冬の間である。それにもかかわらず、彼は1942年夏をマサチューセッツ州のストーで過ごした。1942年秋、アレクサンダーは教授のためにニューヨークに出向いた。戦時中は調整されていた宣伝の拡散が妨害された。1943年7月初旬、彼はケープタウン・キャッスル号に乗ってロンドンに帰った。

その一年前、1942年6月、南アフリカにて、アイリーン=タスカーがレッスンのデモンストレーションをアーネスト=ジョークル博士におこなった。1944年、『フォルクスレージ(マンパワー)誌』はジョークルによる記事を発表した。その記事で分析されたのは著作中で使用されているアレクサンダーの概念であり、多分に徹底して詳細になされた。1944年10月、アレクサンダーはロンドンの南アフリカ高等弁務官に手紙を書き、雑誌記事の撤回を求めた。雑誌の編集スタッフは完全にその手紙を無視した。1945年8月、アレクサンダーは召喚状を出し、南アフリカ最高裁判所のウィットウォーターズランド地域課に損害を主張した。これが長い裁判闘争の初動を生み出し、最終的に1949年まで争ったのだろう。1947年7月2日、ロンドン調査委員会は告発と被告の証人から証拠を調べ始めたが、それは大多数の人が証言するために南アフリカへ行く立場とはならなかったからだ。この調査は6週間続いた。アレクサンダーとジョークルは共に全ての聴取に出席した。その聴取は大きな身体的及び精神的ストレスを78歳のアレクサンダーに生じさせた。それでもなお、彼は1948年に南アフリカへ行くことを計画し、すでに渡航を予約していた。彼はリットン卿が1947年10月に死亡したこと伝えられた後、アレクサンダーはさらにひどく取り乱した。12月、彼は二度の卒中を起こした。彼が南アフリカへ出向くことはなされなかった。訴訟は1948年2月16日に開かれヨハネスブルグの最高裁判所でおこなわれた。裁判は2日間で終えた。判決は1948年4月19日に宣告された。アレクサンダーは1,000ポンドの損害賠償と一緒に費用も与えられた。しかしながら判決は犠牲が多くて引き合わない勝利だった。1948年5月8日発行、『英国医学誌』で報告された判決の評価では「アレクサンダー・システムの構成は危険なインチキ療法から成る」と言われた。1948年12月11日、『リーダー・マガジン誌』にはアレクサンダーの短い伝記として『自己の使い方』にある「進化するテクニーク」の章を掻い摘まんで、メディアの曲解も伴って掲載された。

1949年7月21日、ロンドンのブラウンズ・ホテルで大きな夕食会があり、アレクサンダーの80歳の誕生日を祝うために、その日を前におこなわれた。スタッフォード=クリップス卿は大々的に報じるスピーチをおこない、アレクサンダーを「偉大なる教師であり、偉大なる指導者として、世界中の健康と正気のために奮闘した」と称賛している。その年の後、アレクサンダーは数通の手紙を『リテラリー・ガイド・アンド・レイショナリスト・レビュー誌』の編集長宛に発表した。その中で、彼は1910年の『人類の最高遺産』にある継承される習慣の進化論に逆戻りし、それによって理論的循環を終結している。

アレクサンダーの主な支えは支持者達の忠誠だった。そのことは1949年に崩壊している。数人の認定された教師はそれぞれアレクサンダーと仲違いした。アレクサンダーの本拠は縮小した。最後まで、アレクサンダーは監督を譲りたがらず、彼自身の手法だと思っていたことを、彼が訓練した練習生にさえ引き渡さなかった。彼は気の短さを発達させた。そのことが脳卒中に関連したと見える。訴訟によって生じたストレスが加わり、このことで彼の激昂と不機嫌が説明されたかもしれない。アレクサンダーはそのことを受け入れなかっただろうが、彼の体力と健康、彼の監督する自分の教授法と教授する本拠、彼の評判、彼の交友関係、そして事実上、彼の生命、彼の若さ、これらは徐々に衰えていった。彼は歳を取ったのだ。彼は本当に80歳になったのだ。全員が受け入れた事実であるが、アレクサンダー自身は別としていた。

1949年11月12日、アレクサンダーはオービンディーンの聖ダスタンズで講義をおこなった。彼は自分の手法を実演しながら抑制の実践を説明し、強調して彼のワークは「予防」にあり、「治療に興味はない」と述べた。治療というのは「特殊なものにすぎない」と、彼は主張した。

1953年2月26日、『ニューズ・クロニクル紙』がアレクサンダーとおこなった短いインタビューを発表し、ロナルド=サールによる挿絵が掲載された。記事に書き留められたアレクサンダーの困り事は、どんなときでも彼がヒーラーと呼ばれるときにあった。1954年3月8日付『イブニング・ニュース紙』で発表された「アレクサンダー氏は一つの新しいテクニークを長い人生の間で得た」と、デイヴィッド=ワインライトによるインタビューで掲載された。この記事の物語はアレクサンダーが歩んできた「堅実な一歩」である。そこに「誰一人彼に気おくれする人はいない」とあった。1954年5月22日発行『ニュー・ステーツマン・アンド・ネーション誌』は、ルーイズ=モーガンのアレクサンダーに関する著書『あなた自身の本性』の評論をおこなった。その評論はアレクサンダーの注意を引いた。彼はすぐに編集長へ手紙を送った。それが最後の発表物だ。

1955年は、多数のアレクサンダーの財産は売却されている。1955年3月18日、アレクサンダーはペンヒルの家を売った。その家具は競売で売却された。7月25日、彼は改めて意志を署名し、末弟バーモントを後援するものだった。1955年9月末までに、アレクサンダーはきっと風邪をひいたのだろう、それはアレクサンドラ・パレスで競馬に訪れた後だ。

1955年10月10日、アレクサンダーは彼の看護師と会話している最中に逝去した。

彼の亡骸は火葬された。

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