第四部 呼吸教師アレクサンダーのワークと理論的な基礎原理を持つ19世紀後半から20世紀前半の呼吸教育運動にある関係
アレクサンダーの記事は1894年7月9日発行『ホバート・マーキュリー紙』と1895年7月20日発行『オークランド・スター紙』でわずかにあり、初期の手法を掻い摘まんで述べれば、それらは彼の精通していた話す技術についての文章を見せている。両記事の大半で取り上げられたのは、しばしばほぼ言葉通りに、『演説トレーナー』という、T.P.ヒルによる一冊から引用されており、彼は発声教師の父と言われている。アレクサンダーテクニークとしてまだ発達していないところに光を当てると、その手法の概要は『演説トレーナー』にあるが、無視されてきたアレクサンダーへの影響である。
アレクサンダーの職業は一つの側面として同時代の政治的な論考を反映したものだ。事務員としてウォラタ・マイニング・カンパニーに勤務していたとき、彼は演劇クラブに加入して「仮出獄者」の舞台に参加した。メルボルンに到着したとき、その現場が提供した機会は演劇法の腕試しだった。メルボルンの文化と政治的仕事の主導は一人のエリートによってなされており、そんな人の持つ心情は本質的ないなか者で英国内の中産階級であり、すなわち帝国支持者だった。保守的なオーストラリア人らが形成してきたいくつかの団体が「母なる」英国との文化的繋がりを助長した。これらの団体に含まれたのは、美術ヴィクトリア協会、王立協会、メルボルン・シェイクスピア協会、メルボルン発声法協会だった。
もちろん、すべてが保守的な考えになったわけではない。1901年まで、豪州が連邦になったときには、シェイクスピアの演劇は珍しかった。代わりに劇場の支配人は未熟な豪州人気質のメロドラマを上演した。さらに、1890年代の豪州では、理想的な教養のある話し方が重要な位置を占めており、奮闘して成立されたオーストラリア連邦と文化の中で生じてきた。そのような擁護が共通の英国植民地的出し物にあり、植民地化された国家の中でさえ、その国家自体を統治する英国との繋がりを断っていたのに、そうだった。1800年代中頃、非常に強い関心が発声法に持たれ増大し、それは合衆国のボストン地域では衰退したが改革主義者の心を持ったボストンの超越主義者達の波に乗ってやってきた。特に、この団体が見出した表現法はデルサルト・メソッドの表現法にあるもので、それは米国の俳優ジェームズ(=スティール)=マッケイと彼の弟子達によって教授し実践されていたものだ。
メルボルンで、アレクサンダーは自分自身を転身し、事務員から雄弁家、詩人、そして舞台俳優に変えていった。アレクサンダーにあるメソジスト教徒の根源は彼自身によく役立った。内在化したプロテスタント派は意味付けと話す言葉を尊重し、それと共に文化的に引き継がれた罪人の孫という汚名を乗り越え、1892年に詩『マサイアスの夢、ブーゴマスター』を朗誦しているときに顕在化することとなった。
演劇に関わる冒険の中には、彼の歩んだ分岐点がある。彼が巡業して廻ったタスマニアやニュージーランドやオーストラリア大陸本土でよく知られているメロドラマ風な韻律のそろっていない詩を公演している。同様に、彼が出演し監督したシェイクスピアの戯曲の公演をおこない、シェイクスピア研究の授業を務め、シドニー・ドラマティック・アンド・オペラティック・コンセルヴァトワールを設立し、豪州内地に生徒を引き連れて巡業し、古典的な英国文化を広げた。少しずつではあるが、英国人以上に英国人となった。
重ねて彼の経歴として英国古典文化におけるタスマニアの使節となり、彼の魅力と一緒に英国風の教養ある声が成熟した。彼の発達させた声と振る舞いは重みがあり、受けたオーディションでは(比喩的に)医師役だった。時が経つにつれて、彼の促進した実践は呼吸の取り扱いと呼吸の調整だった。メルボルンやオークランドのように深刻に空気汚染された都市では、治療不能な呼吸器疾患の患者数が次第に増大し、国民に著しく影響を及ぼした。アレクサンダーの文章が明らかにする影響は、ボストニアン・ナチュラル・スクールの話し方と身振り手振りの教育から与えられたもので、デルサルトからの刺激を断言しており、呼吸訓練と肉体作りを病気と肉体の衰退に対する対抗手段として強く主張している。アレクサンダーのお気に入りだったマンドルの呼吸モデルがある。デルサルト・メソッド実践者達のように、彼が教えたのはラムパーティの呼吸学校の必須項目だった。彼のパンフレットから我々が判定できるアレクサンダーの貢献がラムパーティ・スクールにあり、呼吸法の構成要素に余分な収縮が腹直筋の上端に呼気の終わりで生じる、ということだった。アレクサンダーはしかしながら、非常に秘密主義であり、そのことについて彼の著作内では明かさず、彼の読者は少しも理解しなかったか、それを認めなかった。1890年代後半、彼は自分自身を呼吸の教師として立て直し、豪州の前途有望な人物によって完璧な観念形態を吹き込み、そしてヘンリー=ドラモンドやバトラーの新ラマルク説と英国における19世紀後半の時代精神によって、チャールズ=キングスリーやハーバート=スペンサーの筋肉的キリスト教の考えにある意志を吹き込んだ。
1904年、アレクサンダーは社会ダーウィン説支持者が染めたロンドン社会に到着した。彼は当時、自分自身を砂漠からの予言者として描いた。彼は自己改革をして、雄弁家、朗誦家、シェイクスピア研究課程の教師、劇場の演出家、デルサルト・メソッドの教師、呼吸教師として立て直し、そしてすべての前途有望な人の観念形態を鋭敏な感性と合体させ、それらを正反対にあるホバート、オークランド、メルボルン、そしてシドニーで暮らしながら具体化させてきた。