第五部 アレクサンダーのワークである身のこなし及び姿勢教師と理論的な基礎原理を持つ19世紀後半から20世紀前半の姿勢の(再)教育運動にある関係

アレクサンダーの1909年と1910年に発行された筋感覚の再教育に関するパンフレットで説明する発声の手順と訓練で同様にしてきたことがあり、権威ある同時代の発声法や歌唱や呼吸に関する文献でなされてきたことだ。しかしながら、徐々にアレクサンダーの始めた宣伝とは、彼にはクライアントを手助けでき、古く不要な習慣を取り除けると告げ、そして同時に新しく望ましい習慣を導入する、としていた。その意味で、彼に見られる教授法は発声や呼吸から離れ、全般的な道筋となって全ての運動習慣で変化が生じるものに移っている。彼の見解では、ひとつの習慣は二重の側面があり、すなわち、その構成は精神的側面と平行して同時に存在する身体的側面から成る。アレクサンダーが1909年に述べた抑制(inhibition)は、アルフォンス=ロイゼットの1896年に予見したような心理学的概念に多くの共通点があり、「注意(Attention)」には「方向付ける(Directory)」機能と同様に「抑制する(Inhibitory)」機能があると述べた。1895年にロイゼットと交流を持ってから、アレクサンダーはデルサルト・メソッドの身体訓練に関してスティール=マッケイの弟子達によって書かれた著作を研究し始めたと思われる。分析された彼の文章で示されるのは、ジェネヴィー=ステビンスやモーゼス=トゥルー=ブラウンやステビンスの生徒ベス=メンセンディック博士から彼は影響を受けているということであり、そしておそらく後にアニー=ペイソン=コールからも受けていたと思われる。アレクサンダーがまもなくこれに混ぜ合わせたのは、新ラマルク説の継承される習慣論である。

アレクサンダーの組み入れた全体にわたって浸透している英国の時代精神は帝国の意志だった。しかしながら、この意志はボーア戦争後に急速に縮小していっている。つまり民族国家が浮かび上がってきたのだ。貴族政治は力を失った。社会進化論者の流布した民主政治的に有利な信念は、継承される「血統」の考え方である。これらの強い信念が貴族政治的な伝統から引き継がれた。進化論は浮かび上がってきた民族国家の意志を縛りつけるようになった。アレクサンダーの継承される習慣の進化論理から見ていくと、それは当然「仮にあなたが個人を変化できるのなら、なぜ社会を変化できないのか」、という結果になる。

新しい訓練を開発してきたというよりむしろ、アレクサンダーは採用した様々な身体的手順を他の訓練から取り入れており、それは新しい目的として優生学的なユートピアを習慣の再教育によって作り出すのに役立てるためだった。とはいえアレクサンダーが発展させてきたかもしれないことがあり、特徴的な手法で指導しクライアントを座っているところから立つ姿勢に案内するといったものであるが、彼はハインリッヒ=セバスチャン=フレンケルによる「系統的な」訓練を組み入れたという方があり得る話で、それは動作の協調作用を再教育するためにおこなわれるものだ。フレンケルの手順は基礎を「分析された関係性に置いて、主動作筋と拮抗筋という[従順に]協調作用の原則に従うものの間で調べること」である。フレンケルの体系は脊髄癆の影響を治療するのに必須の手法となっており、肉体を使い、動作させ、現れる態度に関連する。フレンケルが実験してきた訓練は協調作用の再教育を立つこと・曲げること・歩くこと・階段の昇降・起き上がること・座ることの中でおこなうものだ。患者の習得すべき正しい動作があり、彼らに心理的な準備をさせ、それらの動作が常に彼らの身体動作を彼らの眼と共に生じる前でなされる。

この脊髄癆性運動失調の処置に関する情報はアレクサンダーに様々な情報源を通して行き着いていたかもしれない。医師達の一人は蓄えてきた助言があり、その人がエマニュエル運動かフレンケルのいずれかを伝えていたかもしれない。さもなければ、彼はその手法をボストニアン・エマニュエル運動の1908年出版『信仰と医学』、あるいはベネット博士の1907年出版『協調する動作の再教育、特に脊髄癆に言及して』、あるいはフレンケルの1902年出版の著作を読むことで単に学ぶことはできた。ベネットの構成概念とエマニュエル運動の精神的で運動性の再教育はベネットの原理に基づいたものだ。

アレクサンダーの1931年版『自己の使い方』で語っている進化するテクニークの足どりは、フレンケルの歩んだ脊髄癆性の運動失調にある患者の教育と類似しており、それは動作を実行する前に心理的に準備するようにするものだ。アレクサンダーとフレンケルの教えで共に働かせるのは、注意深く考え抜いた動作を計画的で視覚的な調整と共に実行することだ。

アレクサンダーはまさに晩年まで自分自身に自己暗示的なやり方を訓練し、たった一人で認識に基づいた計画を応用することで身体上の運動的習慣に取り組んだ。しかしながら、1911年以降、彼は次第に自分のクライアントに「方向と命令を与える」認識に基づいた指令を経て指導することをしなくなる、つまり、「方向と命令を与える」自己暗示のような指示を通しておこなっており、しかし進歩して、クライアントを経験的に、ほぼ無言で、手を置く交流による指示を通しておこなった。1911年と1931年との間で、彼がどういうわけか発見した方法は手を道具として使って指令を伝えることだった。1931年以降、彼は教師養成コースの練習生に手を置くことを教えていたが、同時に練習生達は彼ら自身で他の練習生に手を置くやり方を通して教え合っており、自己暗示のように指示される「方向と命令を与える」ことを説明しながらおこない、その頃にアレクサンダーは自分の手を置いて教えることを一変させ革命が起きた。これがアレクサンダーのテクニークの本当の誕生だった。

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