デューイのアレクサンダーに関する記述
ジョン=デューイによる主要作品からFMアレクサンダー (FM)に関する記述を抜粋した。
人間性と行為 (1922)
1918年春、『人間性と行為』はリーランド・スタンフォード・ジュニア大学に招かれたデューイの講義から制作された。講義録を加筆し出版準備は進めていたが、そのとき日中訪問によって彼は不在だった。出版は1922年になされた。第1部「行為における習慣の地位」の第2章「習慣と意思」に以下のようにFMについて記述されている。
最近、ある友人が私に言うには、教養のある人々の中でさえも流行していた迷信があった、ということだ。彼らの仮定では、もしある人が何かをしなさいと言われると、正しい目的が彼らに指示される場合、正しい行為をもたらすために必要とされたことすべてが行動する側にある意思あるいは願望である、というものだ。・・・彼の指摘では、この信念は原始的な魔術と同等であり、おろそかにしているのは注意を向ける手段であり、目的の達成に関わるものだ。そして、彼がさらに言うには、流行しているこの信念は、肉体を調整できるという誤った考えを皮切りに、拡大して精神と性格の調整へ向かうものだが、知的な社会進歩にとって最大の障害であるということだ。それは妨害する道であるというのも、我々に知的探求を望ましい結果を生み出す手段の発見へ向けることをおろそかにさせ、知的発明を手段の獲得へ向けることを無視させるものだからだ。要するに、除外していることは、知的に調整された習慣の重要性である。
経験と自然 (1925)
『経験と自然』[J. Dewey (1925)]では2カ所に現れる。第七章「自然、生命、肉体‐精神」では、以下のように取り上げた。
医学・政治学・科学・産業・教育において、特定かつ特殊な繋がりのないことに没頭する、そんな世界は狂っているように見える。全体を包括した意識調整(conscious control)の点から、調査が向けられるのはそれらの環であり、それは重要な地位を占め、決定的な関係をもたらす繋がりで、絶対に必要なものだ。・・・我々が手順を所有しこの連続性の実証を実際に実行するまで、我々は継続して従事し、何か他の特殊なこと、何か他の断絶したことに訴え、関連性や統合の修復に向けて続けるだろう。つまり、特別な宗教や改革、あるいはどんなことでも特別なものを求めることは、その時代に流行する治療法である。このように我々は、治療のために使われる手段で病気を増大しているのである。
デューイが『人類の最高遺産』と『建設的に意識調整するヒト』を参照するように註記しているというのも、詳細な解説がFMの主張にあり、そこには自らの健康問題の改善や影響を受けた哲学が記述されているからだ。FMが『建設的に意識調整するヒト』の草稿を持って米国に渡ったとき、当時流行した自己暗示法の創始者エミール=クーエも同じ船に乗っていた。このときの出来事は「病んだ世界(A Sick World)」を1923年1月24日付のニューリパブリック誌で発表する動機となった。クーエの手法を批判しつつFMを紹介した。
次の箇所、第八章「存在・観念・意識」では「心身問題」の核心として触れた。
実際的な感覚で、ここに心身問題の核心がある。・・・現実化された意味(meanings)は、心身の性質に隠された意義と価値を備えている。しかし、それはまた、その性質を混乱させて誤らせる。この頽廃の効果そのものは、心身の中で習慣を通して具現化され、一方的に退化した極端な感受性を形成している。つまり、分裂と頑固な病的執着の両方を知覚登録の中に生み出す。これらの習慣的な効果は、今度は自動的かつ自然な「直情的」なものとなる。それらで形成される舞台はさらに深い意味の発達と理解となり、影響はあらゆる側面で、個人的にも社会生活にも及ぶ。
参考
- J. Dewey, (1922), Human Nature and Conduct, Henry Holt and Company.
- J. Dewey, (1925), Experience and Nature, Open Court.