ランドルフ=ボーン「別の救世主」

Other Messiahs by Randolph Bourne1

ランドルフ=ボーン 著 / 池田智紀 訳

デューイ教授の温かい擁護がアレクサンダー氏の評論に与えられ、全く健全な論点だとされており、批評者はより詳細な分析を氏の評論に示すべきである、としています。私も同意するので、「その作品が批評するに値するならば、その評論は主張する価値がある」としましょう。しかし、たとえ私が同じ分析を示して、デューイ教授の寄せる抗議文の第一段落にある文面を提示しても、私には理解できないことがあり、それは、私の批評は本質的に違うものだったのだろうか、ということです。私は、真っ直ぐに自分の熟考した重要な論点をみせましたが、その理解では、デューイ教授は私を批難し、的外れとなっている巧妙さが露呈されている、としています。そこにあったのは、アレクサンダー氏の哲学が氏のテクニークに必須なのかどうか、そして、氏の哲学が世界情勢に関連しているのかどうか、でした。私はデューイ教授の論理を完全に誤解したのかもしれませんが、しかし教授は、テクニークの成功を証明する哲学論文をほのめかしているようでした。つまり、アレクサンダー氏が治癒を文明人の神経症におこない、彼ら自身が表している知的で道徳的な病を治したならば、人類進化の次の段階としてアレクサンダー氏の理論である意識的な調整と指導がそれで証明される、としているのです。この論理が証明するのは、クリスチャンサイエンスの真理や何か別の理論となる心身の協調機能でしょう。

デューイ教授はおっしゃいました、アレクサンダー氏の原理は「実験的」であると、しかし本書の中に根拠はなく、この「現在あまりにも分断されている機能を統合するための教育」は実験によってでてきたものなのか、もしくは、アレクサンダー氏がほんのわずかな歩みでこれまで生み出した、氏の生理学的テクニークを使って実験的に確立する氏の素朴で大雑把な主張に向けてきたものなのでしょうか。氏のテクニークが実験的に生み出されていないならば、そのとき私はそれを直感的だと呼ぶのに不公平を感じません、というのも直感によって私達は普通の意味で知識あるいは技能の才能があり、人は科学的手順とは関係なく所有しているものだからです。当該テクニークはその成功によって経験的に確立された具体例です。その論文と哲学はその背後に輝かしい推測を残したまま、ユング博士やこの領域における他の研究者の理論と同じくらい興味深く刺激的なものです。アレクサンダー氏の論調は氏の理論の妥当性をさらに納得させるよりもむしろ、そのようにはならないのです。氏の持つ全ての空気感は神の言葉を伝える人です。氏の告知している真理があり、もっともらしい科学的仮説を示しているのではありません。この論調が私に懐疑論を引き起こしました。私としては、アレクサンダー氏の哲学がもう一方にある氏のテクニークを優越しているとほのめかしましたがしかし、決して、氏が自己欺瞞や計画的なイカサマをしているとは論じていません。単純な指摘として、氏は哲学者として受け入れられることを気にしているようで、それは非常に才能ある生理学的な操作者として受け入れられる以上のものに見えます。これをデューイ教授が侮辱的であると思われるのはなぜか、と私は途方に暮れています。私が教授に同意できないことは、文明化以前の選択が「何か魔術的な計画を信じること」に限定されたことと、アレクサンダー氏の手法を普遍的な働きに置き換えた仕事です。私には別の救世主や別の伝道者がいるのではないかと思います、彼らはアレクサンダー氏の手法により有益で協力できるかもしれません。読者で私の評論によって惑わされるのを恐れる方は、本書を購入した方がよいし、アレクサンダー氏の知的活動の正当性と氏の論文の広大な説得力に自分で満足する方がよいです。

R.B.


  1. Bourne, R. (25 May 1918) Other Messiahs, The New Republic Vol. XV, p. 117。ボーンが『人類の最高遺産』に寄せた書評に対するデューイの「書評への返信」への返信。1918年5月28日付のニューリパブリック誌で掲載された。ジョン=デューイによる「書評への返信」への返信。デューイによる紹介文と返信、及びボーンによる書評は、『人類の最高遺産』(2015年、風媒社)を参照すること。 ↩︎

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