『自己の使い方』「進化するテクニーク」要約

※教育実習前に課された課題の一つ。文章は当時のまま。原文は、日本語版『自己の使い方』草稿を使用。

池田 智紀

私が練習生時代(2012年)に要約したもの。この要約と「私の自己の使い方」を経て教育実習をおこなった。誤字脱字を修正したが、本文は当時のままだ。私家版『自己の使い方』を使用。

フランシス=ベーコンの「ノブオルガヌム・新機関」から引用している。

以前の2冊ではテクニークを徐々に進化させてきた経緯を記述した。「精神」と「身体」は別物であるという思い込みを放棄するしかないという変化は、初めから全て変化していたのではなかった。この原理は繰り返しレッスンをしてやっとわかるものだが、実際にたくさんやれない。そこで、本書でFM氏の個人史に関連づけて紹介している。

幼少の頃から詩の朗読を学び、アマチュアを経てプロの朗誦家としてやっていく決意をした。数年間はうまくいったが失声に至り、医師に診断を受けて治療をした。医師の指示に従うと回復したものの、劇場で朗誦した夜、その夜の終わりには普通に話すことさえままならなくなった。

FM氏は落胆したようだ。声が出なくなった次の日、医師にその夜のことを話し、「結論としては、あの晩に私が声を使うときに、何か私が自分で自分にやっていたことがあり、その何かが原因となって問題を生じたのではありませんか」と尋ね、医師はそれに同意した。しかし、医師は原因はわからないと言い、FM氏は「私は自ら試して、自分自身で見つけなければならない」と決意した。

調査をしようとした時に、二つの事実はわかっていた。一つ目に朗誦をすると喉がかすれた状態になるということ、二つ目にかすれの消えていく傾向があり、自分で声を使うのを制限して日常会話の範囲にしている限りはこの傾向が続いたこと。この二つの差異が何かを知ればのどのかすれを取り除けるかもしれないと思ったようだ。

そう結論付けてから、鏡を用意して普通に話をするときと朗誦するときの両方を比べた。そこで発見したことは、朗誦に取り掛かろうとするとすぐに、頭を引き下げて後ろにやること、喉頭を押し下げてつぶすこと、口から音がするほど息を吸い込んであえぐように聞こえるやり方をしていたこと、が見えた。三つの傾向があると確信してから、普通に話すことを観察しなおすと、度合いが少ないだけでやっていた。

実験を繰り返しと、朗誦する際に自分で自分にしていることが原因になって喉の問題が起きる、という仮説は筋が通るとわかった。その結果として3つの傾向が実際に過労となって喉の症状に現れ、これが誤った使い方であると推測し、誤った使い方を予防することをしなければならないと思った。

しかし試そうにも、この発見を実践的に利用しようとしたとたんFM氏は途方にくれてしまった。数か月実験を続けて、頭を吹き下げて後ろにやることを予防することで、間接的にほかの傾向も減った。これをきっかけに、プライマリーコントロール(初めに起こる大事な調整能力)が人間有機体の全ての機構において見うけられるとわかったようだ。

予防することで、誤った使い方がこうした身体器官(部位)で減少すると同時に、声のかすれは減少し朗誦しても平気になってきた。このようにFM氏に変化が生じてきたのは、使い方(use)が変わったおかげだと彼は言っている。使い方と機能は密接に関係していた。

FM氏は自分の頭が実際に自分が正しいと感じるよりもっと、ずっと前にやるようにした。しかし、ある地点を越えると頭を引き下げており、喉頭を押しつぶしていた。実験を繰り返した後、頭と首の動きを原因として喉頭が押しつぶされる結果をもたらす使い方をすると、胸を持ち上げて身長を短くしている一連の傾向に気付いた。誤った使い方は発声器官だけではなく全身に及ぶ影響があるとわかった。

長期にわたって実験を続けると声のかすれが最小の傾向になるときに関連して、身長が伸びていくところを観察した。そのためにやらなければならないのは頭を前へ上へ行くようにすることだった。しかし、朗誦しながらやろうとすると、身長が短くなる傾向があり、同時に脊椎を反らせて「背中が狭くなる」効果があった。結論は、自分で「正しく」感じるような、頭を前に上に持ち上げようとするやり方は、有効でなかったにもかかわらず、それでも実際に、自分の頭が前に行くので上に行くようなやり方をやらなければならなかったということだ。

この時、「予防」と「しようとする(Doing)」ことを混在して、一対の動作としてやろうした初めての試みで、このやり方で出来るに決っていると思い込んでいたが、その状態を持続したまま話すことも朗誦することもできないありさまが、鏡に映し出されていた。鏡を増やして実験をすると、「予防」と「しようとすること」を混在させてしたとき、自分の頭が前へ上へ行くように動かしておらず、後ろへ下へ動いていくことだった。

今回の実験は、新しい使い方で調べるから、不慣れな体験になるだろうから鏡にそれまで以上に頼るほかなかった。思ったように身体動作できるということが不可能だと発見したFM氏は、ほとんどの人が似たような状況で同じようにやっているのがわかり、不慣れな知覚体験が含まれる動作まで「やるつもり」ならできるというのは、彼は妄想というしかないと言っている。

もう一度ふりだしに戻り当初の結論を見直した。次は「動かす」やり方がどの点で誤っていたかを探らねばならなかった。実験を辛抱強く何ヶ月も続けると、いかなる計画になろうとも、自分が長いままでいながら朗誦しようとするならば、当該部位で特定の誤った使い方を予防し、より良い使い方が代わりに生じると同時に、有機体全体の使い方がうまく滞りなく動かなければならず、発声以外にも立つ・歩く・腕や手を使ってジェスチャーする・役柄を解釈するといったことまで全てが関与してくるということがわかった。

鏡を通して観察で示されたことは、朗誦するときに、様々な部位まで自分の使い方は特定の誤ったやり方になっており、有機体全体を通して過度の筋肉緊張状態になって、強い影響が脚・足・つま先での使い方に観察できた。

FM氏は以上の発見をしたら、昔の教師による「床をつかむように足の裏を使いなさい」という指導を思い出した。誤ったやり方でやっている何かを訂正するために、別の何かを教えてもらえば、当然うまくでき、自分がうまくやれているなら全部うまく行っているように感じるという信念がごく一般的なものとしてあるが、この信念は妄想にすぎないとFM氏は言った。

今まで以上に細部まで観察し続けると、自分が脚・足・つま先でかつての教師に言われたやり方で、FM氏は立っているとわかった。どこかひとつの部位が誤ったやり方のままで自分を使うと、その部位から混在した誤った使い方が引き起こされ、肉体系=精神系の機構全体として誤った使い方が起きる。習慣的にどんな動作においてもFM氏はこのやり方を使っていたと気がついた。これを「習慣的な使い方」とFM氏は命名した。

その影響を考慮すると、誤った使い方には大変強力な拘束力がある。習慣的に使用されて、さらにFM氏の場合は特訓していた。その習慣的な使い方は、いったん働き始めるとほとんど逆らいがたい刺激となって、彼は足元から始まって、朗誦しようとすると、頭を引き下げて、彼の欲求とは正反対になる方向へ行っていた。新しいやり方である部位を使おうとしても不慣れであるために、新しいやり方で動かすのは弱く、一方で、古い習慣的なやり方が別の部位にあると、全体では元通りの動作を起こすほど間接的な働きが強力だった。

朗誦するという目的で、特別な刺激を働かせた新しいやり方で頭を動かすのは、不慣れであったために弱かった。一方、足の裏や脚の使い方は、強力に特別な別の刺激が働いて、慣れ親しんだ動作になっていた。使い方が変わって機能が変わり、不満足から満足した状態へ行きたいが、習慣的な誤った使い方を練習して培ってきた場合は、その人がどんな目的でそれをやってきたにせよ影響は大きく、実践において抵抗しがたく圧し掛かってくる。

FM氏は長考し、方向を指示しながら自己を使うとはいかなることかという質問自体、全体を捉え返し、自問自答をするしかなかった。自分で自然に感じられるように、習慣的に自己を使っていたに間違いなく、「感じ」に依存したやり方で、方向と自己の使い方を決めていた。しかし、実験結果を元に、感じに頼るやり方で方向を決めれば必ず失敗すると分かった。

この事実は、自分の感じを唯一の道案内としながら、行きたい感じの方向へ自己を使うと全く信頼できなくなることが明確になったことだった。いくつか確かな点は、1.感じで頭を前に上にやろうとする時に、頭を引き下げ後ろに下にやっていた、2.この誤った方向へ直情的に行くと同時に、信頼に値しない感じを伴い、それが部分やまとまりを形成しながら、習慣的な使い方で自己を使っている、3.この直情的で誤った方向へ行くと誤った習慣的な使い方になり、直情的に即座に反応(反作用)してしまうような刺激を用いて自分の声を使っているということだった。

もう一度考え直していたら、FM氏は不満足なやり方で朗誦するという考えを、元から止められるはずだと閃いた。次にやろうとした実験で、声を使うという刺激に対して満足できる反応をうまくやりたいならば、古い直情的(理不尽な)方向へ自ら進んでいたのを、新しい意識的な(理知的な)方向へ進むように、自分で転換しなければならない、と導いた。

この考えで調整した使い方を機構に取り入れ利用すると、直情的な水準を改めて意識的な水準を用いることになる。FM氏は実践しようとしたが、驚愕の連続で予期せぬ経験に打ちのめされた。声を使おうと刺激によってことをはじめると、すなわち何かをしようとすると、また、新しいことをやろうと意識的な方向へ行けばもたらされる動きをしようとしながら同時にすぐ話そうとすると、習慣的な使い方が戻ってしまうと発見した。結果にあわてて行こうとする手段(エンドゲイニング)をしていた。

がっかりする経験を繰り返した後、全部放棄することを決意し、すると自分に必要なのは「話す」という刺激が出てきても受け止めるだけにして、何かすぐに反応するのを拒否することだとわかった。今までにやっていたことの代わりに、自分に行く方向を与えるところに限って、新しい「その時最適な手段」に変えようと実験をして、新しい方向へ行くように続けた。

この学習は特に「思い方」と呼ばれる所での実体験が不可欠で、一つの方向を投影し、それを継続しながら第二の投影をし、第一と第二の方向を継続しながら次のというように、順を追って目的が達成されるまで連続して継続するやり方をしなければならない。「その時最適な手段」を十分長い時間練習して、核心部まで進もうと、こうした企てをすればするほど、より複雑になった。

再熟考すると、優勢である自分の誤った使い方を阻止できてなかったことと、直情的に行く方向とそれで引き起こされる習慣的な使い方との両方がまだ優勢で、意識的に理知的に行こうとする方向よりずっと強力だったという理由で失敗していた。FM氏は「感じる」ことあるいは思うことで自分が抑制して古い直情的な反作用をやらないつもりでもそれでは証拠にならず、自分が本当にそのようにやっているのかどうか定かではないとわかり、次に見つけなければならないのは、実際に「知ること」だった。

つもりとしては、意識的で理知的な方向へ行き新しい使い方をもたらそうとしたが、誤った使い方をもたらす直情的な方向が、その時の感じがあまりにも正しく自然になるせいで、直情的な方向に行き当然慣れ親しんだ使い方で自分自身が正しいと感じるように動いてしまう。同時に未体験であるから意識的な方向へひとつずつ順番に進むことに全く親しみがない。

FM氏は、方向と使い方を決めるのに感じを頼りにするべきではないと、初めから気がついていた。しかし、ある使い方をした体験が「正しい」という感じを一切用いないでいるのかどうかが障害となって、新しい使い方をするのが邪魔されていた。

どんな手順でも自分が理性で決めたことを最上として自分の目標におき続けなければならないから、その手順が誤った感じを伴ったとしても続けなければならない。自分の直情的な反作用が刺激に対して起き、結果にあわてて行こうとする行為が起きそうになるのを抑制し続けながら、同時進行で、自分が投影した順々に行く方向へ働きかけ続け、新しい使い方が決定的瞬間にも優勢になり、そうやって結果に至るようにされなければならなかった。 多くの企てをやって、散々やってみた揚句の果てに、次の計画を取り入れた。

1.抑制する。刺激に対して、どんな即時の反応もしない。

2.投影する。順々に生じる方向へ行き、プライマリーコントロール(初めに起こる大事な調整能力)に向かう。

3.継続して投影する。いろいろな方向へ行けるから、望ましい方向へ行きながら働いて目標へ向い結果に至り、文章を話す。

誤った古い習慣的な使い方がすぐにでも出てきそうになる、決定的瞬間にこそ、自分に変化が必要で、古い手順を変更するために、

4.決定的瞬間に、同時に、ずっと継続して投影し、行く方向へ進み新しい使い方へ向かいながら自分をふと止めて、意識的に再熟考し、自分の最初の決意を思いなおし、「自分でやっぱり続けましょうか、結果を得ると自分で決意をしたように、文章を話しますか。それともしないのでしょうか。それとも、他の結果を得られるように続けて、いろいろやって見ましょうか」と自分にお願いをしてみる。すると、その時に新鮮な決意をしなおすことになる。

もしくは、

5(a).当初の結果を得ようとはしない。

5(b).結果を変え、何か違うことにする。

5(c).続けて、最終的に初めの結果を得ることにしてみる

この手順は、どのような手順でも個人的に直情的な方向へ練習してきたものと正反対であり、人類が直情的な道筋によって継続的に訓練してきた進化上の経験全てを通しても正反対だと、FM氏は指摘している。

訓練をするうちに、元の結果を得ようとするところで刺激に対して直情的な反応が起きるのを抑制し、そこで始めた抑制をずっと維持し続けながら、同時に、私の行く方向が新しい使い方になって現れるように投影し続けることも必要だった。FM氏は徐々に障害を克服し、「文章を話す」という元の決意において、意識的で理知的な方向が最後には優勢になった。古い傾向で元の状態に戻り、誤った習慣的な使い方によって朗誦することが消滅した。

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