ロンドン2016

このレポートは2016年8月にロンドンへ行った際のものでです。過去にブログで書いたものを再編集しました。

目次

アシュリープレス街

アレクサンダーテクニークの創始者、F.M.アレクサンダー氏の教室があったアシュリープレイス16番地は現在、商業施設の搬入口・事務所になっています。左側の建物が当時のマンションがあった場所です。ヴィクトリア通りの裏にあり、右手にはレンタルサイクルのステーションとゴミ収集所があり、当時は教会が建っていました。

アシュリープレス街の標識

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アシュリープレース街

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アシュリープレース街(1908年のポストカード)

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FM氏は1904年から1910年の間はArmy And Navy Mansions1というところで暮らしていました。現在では違う建物になっています。

ウエストミンスター大聖堂

アシュリープレス街を進むとウェストミンスター大聖堂が見えます。

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ヴィクトリア通り

ヴィクトリア通りに出ました。

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交通博物館

当時の交通網、古い地図を探しにロンドン交通博物館へ行きました。2

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最初に地下鉄(Underground・Tube)が開業したのは1863年、現在のヴィクトリア駅を通過するDistrict Lineは、1868年にSouth KensingtonとWestminsterとの間で開通しました。1890年には電動の地下鉄が世界で初めて開設されたようです。FMがロンドンに来た1904年ごろでも交通手段は充実していたと思われます。このときはまだ馬車も走っており二階建てでした。現在の市内を回る交通手段は、地下鉄・電車・バス・船・タクシーなどがあります。

レンタルサイクルが設置されており、各地にそのステーションがあります。街には現在地とその周辺がわかる地図も多く点在しており、迷うこともありません。目的にしていた都市の地図はありませんでしたが、1900年の鉄道網図がありました。

一階は歴代の車両模型(バス・電車など)が展示してありました。その他、切符・車両広告・車両デザインの変遷がわかります。オンラインミュージアムでは写真や映像を見られますので、参考にできるでしょう。3

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グローブ座

St. Paul's Stationから降りて南に向かい、ミレニアムブリッジを通ってテムズ川を渡りました。劇場は白い円筒型の建物になっています。シェイクスピアの多くの戯曲が初演されたところです。

観覧した演目は「マクベス」でシェイクスピアの四大悲劇の一つ。途中で観覧者が倒れるトラブルもありましたが、役者らのアドリブで収めていました。今回は予約が遅くLower Galleryだったので、また観覧する機会があればYardで立ち見したいと思っています。

マクベスのプログラムをみるとスタッフの中に「Globe associate - Movement」と書かれており、アレクサンダーテクニークの教師がいることがわかります。イギリスではその他に演劇学校や音楽学校などで必須授業として導入されています。

FM氏はオーストラリア時代、ロンドンに行く前のさよならツアーで「ヴェニスの商人」と「ハムレット」を公演し、氏の監督するトレーニングコースでもその二つの戯曲を練習生達は演じることになりました。また彼の朗誦家時代ではシェイクスピアの朗唱・一人芝居をおこなっています。さらにさかのぼって子供時代、学校へ登校しないことを許されたFM少年はロバートソン先生にシェイクスピアを教わり、演劇に興味を持ち始めました。

テムズ川

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グローブ座エントランス

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劇場

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楽器博物館(RCM・RAM)

王立音楽大学 (Royal College of Music・RCM)と王立音楽アカデミー (Royal Academy of Music・RAM)の楽器博物館へ訪れました。RCMはアルバートホールのそばにあり、学校の中に楽器博物館があります。しかし当時は再建中だったため2019年以降でないと入ることはできませんでした。

RCMではアレクサンダーテクニークの授業が導入されている(Alexander Technique and Aural Classes | Royal College of Music)。1949年にウィルフレッド=バーロー博士と博士の妻マージョリーがアルバートホールの近くに移り住んだ際、RCMの生徒のレッスンをしていたとResearch at The Royal College of Musicという記事に書いています。そのときレッスンを受けていた生徒さんはシンガーだったそうです。細かい実験内容は論文を参照してもらうとして、当時の実験は一つのグループ50人のボランティアに協力を得てアレクサンダーテクニークの再教育をおこなったとあります。結果は「アレクサンダーテクニークを受けた生徒の身体的な使い方には改善があり、全国音楽コンテストで大きな成功を8名の生徒が得ました。そのうちの6名がセミファイナルを抜け、そのうちの1名が勝者となった [Wilfred Barlow, More Talk of Alexander (ed. Wilfred Barlow, 2005, Mouritz, pp.204-210)]」とあります。

アルバートホール

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王立音楽大学

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楽器博物館に入ることはできませんでしたが、中身は電子化されています。

  • GOOGLE ARTS & CULTURE (RCM MUSEUM) (リンク切れ)
  • Musical Instrument Museum Online
  • The Royal College of Music Museum(ストリートビュー) (リンク切れ)

RCMの博物館はあきらめてRAMの楽器博物館に行きました。Baker Street StationからRegent’s Park Stationへ向かう間にあります。

王立音楽院

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同音楽院楽器博物館

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一階にはRAMの歴史と特別展がありました。RAMは英国で最も古い音楽学校です。特別展はヴァイオリン奏者のユーディ=メニューイン氏でした。二階は弦楽器の展示。ストラディヴァリなど歴史的な弦楽器やパガニーニの肖像画などがあります。三階はピアノの展示で17世紀からのものを観られます。家庭用・ステージ用と年代順に並んでいました。

これらの博物館は観光客がよく行くような観光地でもないため、入館者はあまりいませんでした。二階と三階には工房があり、そこでワークショップが開催されるようですが、その日の担当者は不在でした。

RAMでもアレクサンダーテクニークが導入されています。ここではすべての学生が一年の間、個人レッスンを受講するようになっているようです。英国の多くの音楽学校ではアレクサンダーテクニークを導入されています。日本でも最近は音楽家に知られるようになったようで、各地で講座が開かれています。岡山では教室開講以来ずっと演奏家向けのレッスンもおこなっています。

ギャラリー

Ritblat Gallery (大英図書館)などに訪れました。

コートールド・ギャラリーにはマネの「フォリー・ベルジェールのバー」やゴッホの「耳に包帯をしたもの」がありました。13世紀から20世紀までの絵画があり、特に印象派・ポスト印象派のコレクションが展示されていました。

ナショナル・ギャラリーはトラファルガー・スクエアそばにあります。コートールド・ギャラリーでもそうですが、ギャラリー内には展示されている絵画を模写している人がちらほらいました。作品数も多くじっくり見て回ると半日くらいはかかります。ナショナル・ギャラリーには、当時のリトルスクールの子ども達や練習生も訪れたようです。

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もう一つ、大英図書館のギャラリーにも訪れました。図書館内のSir John Ritblat Galleryではバッハ、モーツァルト、ベートーベンの手書き楽譜やダ・ヴィンチの手稿などが展示されています。また展示室内では電子化された資料を読める機械が設置してあり、ヘンデルのメサイアやモーツァルトの日記なども閲覧できます。

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写真技術のない時代は、その代わりに肖像画が多く描かれていました。そこに描かれている昔の人と現代の人の使い方を比較すると、『人類の最高遺産』の第一部に描かれていたことを思い出します。美術の教科書にある写真で見ていたときは美術品というものに興味はありませんでしたが、実物を見に行くとじっくりと見たくなりました。そんな魅力をいくつかの作品に感じました。

ウェストミンスター寺院

ヴィクトリア通りを真っ直ぐ進むとウェストミンスター寺院があります。

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この寺院は10世紀に建立されました。ガイドによれば1066年にウィリアム征服王が戴冠式を初めておこない、現代も当時使われた椅子が戴冠式の際には使われているようです。ここでは歴代の王・王女や政治家などが埋葬されており、建物内の床には埋葬されている人の名前が記されています。ニュートンやダーウィンなど著名人の名前がありましたが、その中に「Edward Bulwer Lytton」というどこかで見たような名前があったので、後日調べました。

Westminster Abbeyのホームページには「Edward Bulwer Lytton」が埋葬されている、とあります。彼の代表作に「ポンペイ最後の日(The Last Days of Pompeii)」があり、有名な「ペンは剣よりも強し」という格言は彼の戯曲「Richelieu(リシュリュー)」で生まれたようです。この人の一人息子が後に初代リットン伯爵になるエドワード・ロバートで、さらにその息子が第2代リットン伯爵となって、後にFM氏と深い関わりを持つことになります。

第2代リットン伯爵、ヴィクター=ブルワー=リットンは英国の政治家でインドの総督でした。日本との関わりから見ると、満州事変の際に「リットン調査団」の団長として、彼は国際連盟から派遣された人です。当時は満州だけでなく日本や中国も視察しました。調査団のレポートは「リットン報告書」として日本語で全文を読むこともできます。

そんなリットン伯爵とFM氏との関係は、「South African Libel Case 1948」の第3巻に現れます。アレクサンダーテクニーク界では南アフリカでの裁判は有名ですが、そこでリットン伯爵も証人の一人となった (pp.833-854) 。この裁判記録の全文は1,400ページほどで読むのは大変ですが、裁判に提出された資料は興味深いものです。

以下はリットン伯爵が初めてFM氏のワークを知ったときについて証言したものです。

......ある友人からFM氏の著作の一冊をもらい、そのときは結婚生活の初期にあたりますが、しかし私は彼と当時出会っていません。……ある若いインドの役人が体調を国内で崩して私の所にやってきました。……彼はお別れを私に言いに来たのです、私は……誰か英国内で彼の健康を回復できる人を探すことを主張しました。彼がインドに帰ってくると、生まれ変わったその男は幸せそうに元気で、すっかり自分の仕事をできるようになっていました。私は彼に尋ねました、どうやってこんなふうになったのかと、そのとき彼はアレクサンダー氏について話したのです。(South African Libel Case, Mouritz, p.834)

このときにFM氏のことを聞いたリットン伯爵は1926年にFM氏の所へ訪問し、「私はシモンズ君[役人]と会いました、あなたが彼にしたことを見たのです。それで、もしあなたが私を助けられるなら、と私は会う気になったのです。」と話していた(p.835)。伯爵の詳細な証言は「African Libel Case」にあります。編集者の紹介文をみると、この裁判記録は原本の複写(全11巻、2,232ページ)から修正を加えて8年間かけて書き起こしたものだそうです。興味をお持ちの方がいたらMouritz社から購入できます。

本屋を探す

ロンドン市内の伝統ある書店から最近の大型店まで有名どころを何ヶ所か訪れました。二つ目的があり、一つは1900年代のロンドン市内の地図を探すこと、もう一つはアレクサンダーテクニークの関連本を探すことでした。

地図探しはStanfordsという地図を専門に扱った書店に行きました。Leicester Square StationからCovent Garden Stationに行く間にある100年以上の歴史がある書店です。ここにあるカッシーニ歴史地図が探していたものに合っていました。

ロンドンの地図

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本を読んでいると多くの地名が出てきますので、以前から当時の地図を探していました。しかし日本ではうまく探せませんでした。帰国後、もう一度探してみると次のようなものがありました。

デジタル化されているとはいえ、紙の地図を広げた方がやはり見やすいです。Old Maps Onlineではアシュリープレイス16番地の場所が確認できる地図を見つけられます。

本屋

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二つ目の目的であるAT関連本の探索は期待外れでした。次の書店を回りました。

普段は通販で購入するが配送料もかかるため、良いものがあればついでに買おうと思っていました。しかし、書店ではほとんど見つけられず、YogaやTai Chi (太極拳)の方が多い印象を受けました。興味あるものはMouritz社からの出版がほとんどなので、通販で買えないわけではありませんが、それでもいくつか中身を見てから買いたいものもあったが残念です。一般書店にないのなら、もしかしたら英国ではそれぞれの教室で基本的に買えるようになっているのでしょうか。

大英博物館・自然史博物館・バッキンガム宮殿など他にも観光地には行きましたが、あまりアレクサンダーテクニークとも関連がないので、これでロンドン旅行の覚え書きは終わります。

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