アレクサンダー探訪(ブログ版)

2017年8月16日から12月日まで海外遠征に行っていた大まかな記録です。もともとブログに投稿していた記事をまとめました。

目次

1. 旅の計画と手配

2017年8月半ばから11月いっぱいまで外国に行っていました。各国の図書館や教室等を訪問してFMアレクサンダーとアレクサンダーテクニークについて調査してきました。少しずつ回想していきます。

今回の旅のきっかけは一昨年の11月、ATJトレーナーコース中に少し話題になったことからです。まずはオランダ王国の研究者や英国・米国・豪州の教師に連絡を取って訪問する約束を取りました。滞在は各大陸におよそ1ヵ月の予定でした。最終的には下記の日程で旅をしました。

  • 8月16日、岡山から東京へ (JAL)
  • 8月17日、東京からヘルシンキ経由でイギリスへ (Finnair)
  • 9月11日、イギリスからオランダ へ(Ryanair)
  • 9月15日、オランダからベルギーへ(FlixBus)
  • 同日、ベルギーからイギリスへ(Eurostar)
  • 10月1日、イギリスからニューヨークへ (Britishairways)
  • 10月10日、ニューヨークからシカゴ、アーバナへ (American Airlines / Greyhound)
  • 10月20日、シカゴからシアトル へ (American Airlines)
  • 10月27日、シアトルからロサンゼルス経由でシドニーへ (American Airlines)
  • 11月4日、シドニーからメルボルンへ (Qantas)
  • 11月7日、メルボルンからアデレードへ (The Overland)
  • 11月13日、アデレードからメルボルンへ (The Overland)
  • 11月14日、メルボルンからタスマニアへ (Spirit of Tasmania)
  • 11月28日、タスマニアからメルボルンへ (Spirit of Tasmania)
  • 12月1日、メルボルンから東京経由で岡山へ (JAL)

航空券の手配

計画を始めてから半年経過した5月に航空チケットの購入に踏み切りました。チケットの購入はゴールデンウィーク明けにしました。オランダやタスマニア島などその他の都市や国は現地手配になります。LCCで乗り継ぐか世界一周航空券のどちらかでしたが、旅の日程が決まっているので今回は世界一周航空券にしました。

今回選んだ「ワンワールド」のチケットはホームページや旅行代理店を通して購入できるようでしたが、ホームページで全旅程の便を確かめた後、JALに電話をして購入することにしました。1というのも事前調査で、ワンワールドのホームページ経由で購入した場合に、購入後の問い合わせ先などで不明な点がいくらかあったからです。

しかし、JALからの購入も詳しく掲載されていませんでした。JALのお問い合わせから「国際線のご予約・ご購入・ご案内」の番号へ連絡すれば購入や旅行途中で便の変更ができます。オペレーターに出発・到着したい時間帯や利用したい国の旅程を伝えると、それに合う便を調べてもらえます。すぐに見つからない場合は、一度電話を切って調査後に折り返し連絡がもらえます。実際の手続きは次のようなものだったと思います。

  1. JAL国際線の問い合わせに連絡してワンワールドのチケットを購入したい旨と旅程を伝える
  2. しばらくしたら利用できる便について折り返しJALから連絡がくる
  3. 利用したい便を確認して予約
  4. そのまま支払い手続きをするか、期限内に再び連絡をして支払いをする
  5. チケットの購入完了、eチケットはホームページから確認・印刷する
  6. 旅行中の日程変更はJALの国際線に問い合わせて変更可能 (時差に注意)

今回は羽田から成田までの移動があり、また最初に向かう英国は、直行便がなくクウェート経由かヘルシンキ経由を提示されたため、ヘルシンキ経由を選びました。昼間に電話するとなかなか繋がらないことがあるので、午前中に連絡して相談するといいでしょう。

出発地の空港ではJALのカウンターでチェックインをしましたが、それ以外の航空会社は自動発券機でした。操作が分からない場合は現地の職員が案内してくれます。

ワンワールドの航空チケット以外は各種ホームページ経由でほとんど予約しました。日本語に翻訳されているホームページであってもおかしな翻訳や機能しない場合があるので、原語のホームページから予約する方が確実でしょう。

それから忘れずに海外旅行保険に加入しておきましょう。また、もったいないので帰国後にはマイルの後付けを忘れないようにしましょう。

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2. イギリス到着とロンドン

ヘルシンキで乗り継ぎ最初に到着したのはイギリス。2016年に一度旅行に行ったので1年ぶりでした。

最初の数日はロンドン市内を散策。地元の図書館などを調査しました。アレクサンダーがワークを発展させてきた土地であっても、現在では書架に並んでいるアレクサンダーテクニークの本は多くなかったです。大英図書館などに行けば初版本なども閲覧できます。

Westminster Archives Center や Bexley Local Studies and Archive Centreなどのアーカイブは記帳するだけで誰でも利用できました。センターで目的のものをいくつか見つけることができたので誓約書を書いて自分のカメラで記録します。職員の方は非常に親切で探しているものや利用方法を教えてもらえました。

アーカイブセンターにあるウェストミンスター地区の第二次世界大戦時の爆撃被害地図を見ると、F.M.アレクサンダーが米国からロンドンに帰国したとき、教室の目の前が被害を受けていたことがわかります。彼の教室があったマンションは、現在ショッピングセンターに変わっており、16番地と思われるところは搬入口になっています。

当時、向かいにあった聖アンドリュー教会も現存していません。

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3. ランズベリー

FMアレクサンダーは自身の過去をあまり話したがらない性格のようでした。先祖が流刑でタスマニア島に渡るまで英国のランズベリーという村でアレクサンダー家は暮らしていました。ランズベリーにはGreat Western Railwayでスウィンドンまで行き、そこからバスでランズベリーへと向かいました。

ハイストリートに面して建てられた教会は200年以上前から存在し、修繕を繰り返しながら維持されました。アレクサンダー家の墓石は時の流れとともに名前が削れているので、墓石群の場所しか判別できませんでした。墓地は地元住民のお散歩コースになっているようで犬の散歩をしている人と何度かすれ違いました。教会内部にあるパイプオルガンは1838年に寄贈されたもので1960年まではボロボロの状態だったようですが、現在は修復されています。

産業革命により脱穀機が導入されたことで失職する農夫が増え、暴動に至りました。柵職人をしていたマサイアス(アレクサンダーの祖父)と車輪職人の兄ジョセフは直接関係していませんでしたが暴動に参加し、機械破壊の罪により流刑となりました。さらに弟のジョンが豚を盗んだことで後に流刑とされ、タスマニアで合流します。

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4. ペンヒル

FMアレクサンダーの購入したペンヒルの家はシドカップ駅から約1マイルの距離にあったと言われています。しかしベクスレーのアーカイブセンターにはほとんど資料がありませんでした。彼が購入する以前に売り出されたカタログと1950年頃に手放した後に解体する写真が残っていました。

ペンヒルハウスはもともとペンヒル農場から分譲されたもののようです。現在では住宅地となっており、関連したものは残っていません。しかしペンヒル・ロードにあるペンヒル・ブリッジは当時からあるのかもしれません。

アーカイブにはハウスにあった暖炉で使用されたタイルの写真と解体時の写真があります。

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5. FMの脚本

1904年にロンドンに渡ったFMアレクサンダーは、俳優をやめても演劇界にかかわりを持ち続けました。ロンドンでのエピソードの中でも、特に知られていないことがあります。最初に発見したのはジェローン=スターリン博士でした。博士の発見によると、FMはガールフレンドのエブリン=グローバーと「the Question of the Time (時間の問題)」という脚本を作りました。

この脚本はランカシャーのある家族が題材となっています。登場人物は4人、ランカシャーの農夫である父親、その妻、その娘、娘の恋人。夜の11時、娘が自分の部屋にある暖炉のそばで椅子に座って寝ているところから始まります。そこに彼氏が窓から現れ逢引しているところに父親が登場し彼氏は大きな古い時計に隠れる、父と娘の押し問答で最後には時計が倒れ、母親の呼ぶところへ父と娘は退場します。最後に娘が振り返ると、彼氏は無事に時計から出てきてハッピーエンド、といった短い喜劇になっています。

博士は一度も公演されることはなかったと言っていましたが、1908年当時の新聞から三つの記事を発見しました。記事から推測すると、公演されたのは1908年10月26日、有名俳優が出演する演劇の前座みたいなもので、観客の記憶には残らなかったようです。

FMの生徒に俳優がいたことはもちろん、後の教師養成コースで演劇をしたようにFMは演劇から離れることできなかったようです。脚本の草稿は大英図書館で眠っています。

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6. オランダ王国へ

イギリス滞在中の合間にオランダのスキン・オプ・グールに訪問しました。目的はFM関連で博士論文を書いたスターリン博士に会うためです。彼は2005年にその論文で医学博士号を取得しました。論文自体は著者からの購入なので日本からだと入手は難しいかもしれません。

9月11日早朝、ロンドンのスタンステッド空港からオランダのアイントホーフェン空港まで、ライアンエアー2で行きました。スターリン博士が空港まで向かいにくてくれて、アイントホーフェンの街を経由してバスと電車でスキン・オプ・グールまで行きました。博士によればスキン・オプ・グールは若者が年々少なくなっており、買い物は電車で隣の駅に行く必要があるそうです。

博士のお宅に到着したのはお昼頃で、さっそく資料を見せてもらいました。10日まで14日まで毎日通い、終日大量の資料と格闘していました。お店もないためお昼ご飯もごちそうになり、最終日にはレストランでオランダ料理をいただきました。食事中にはワークや論文について話しましたが、AT教師でわざわざ訪ねに来た人はいないそうでした。また、AT教師はまじめすぎて面白さが足りない、コミュニティは閉鎖的で研究者と共同しにくいとも言っていました。

博士は現在もATの歴史に関する論文をいくつか発表しています。再度イギリスに戻った後にFMの脚本を探しました。

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7. 大英図書館

FMの脚本を探すために大英図書館に行き、閲覧室を利用するためのリーダーパスを作成しました。初めての登録ではホームページから事前登録をすることでスムーズ手続きが進むようでしたが、今回はそれをせずに行きました。登録所ではパソコンを使って事前登録と同じものを入力するので、事前登録を済ませてから行った方が時間はかからないでしょう。登録には写真付きの身分証明書と英語の現住所の証明書が必要だったので、今回はパスポートと国外運転免許証を利用しました。3

「マニュスクリプトの閲覧室で読めるよ」と聞いただけなので探すのに苦労しました。脚本はコレクションの一部に含まれているのでカタログを検索してもでてきません。最終的に閲覧室の目録から探して二つのバージョンを見つけました。閲覧室への資料の取り寄せは、司書の方に聞いて取り寄せ方を教えてもらいました。脚本は両方とも写真撮影が禁止されている資料ですので、現場でしか読むことができません。

脚本にはいくつか手書きで修正や加筆がなされていました。しかし誰がしたのかは不明です。作者なのか提出先なのか・・・・・・。一部の筆記体は読み取れず、司書の方に何度か教えてもらいましたが、一部読み取れないものもありました。機会があったら是非探してみてください。

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8. ウォルター・カーリントン・アーカイブ

9月後半ごろ、ウォルター・カーリントン・アーカイブに行きました。

アレクサンダー・タイムズ

リトルスクールで作成されていたアレクサンダー・タイムズを調べました。現存している者は1929年から1934年まで。手書きやタイプ打ちされた文書が留められているものです。リトルスクールは1924年に始まった子どもの学校で、FMのレッスンやワークを基礎に置いて通常の授業が進められていました。1943年に米国から帰国したFM達はリトルスクールを再開する予定でしたが、残念ながらそれは叶いませんでした。

内容はリトルスクールの教師や生徒、スタッフによって書かれた文書や絵で構成されています。子どもたちが自身の体験を文章にして著しているものは、当時の学校でどのようなことをしていたかうかがうことができます。授業や暮らしの中で手段を吟味すること・means wherebyの道筋をどのように進めていたかも書いています。

アレクサンダー・タイムズの現物をアーカイブで閲覧しが9月後半でした。その後、Mouritzから11月に発売されています。スキャンされているので紙面そのままを読むことができますが、いくつか筆記体の文章もあります。その他、ワークの原理を取り入れて書いたプロットなど興味深いものもあります。

FMにとって子供の教育は重要課題でした。アイリーン=タスカー女史4とマーガレット=ゴールディ女史5は特にリトルスクールへ貢献しました。教師養成訓練中の練習生も教育実習等で子供達との関わりを持ちました。

裁判について

この裁判の概要は、スターリン博士の論文にあります。1955年と1958年に起きた継承に関する裁判です。

FMの死後、末弟バーモント=アレクサンダーがアレクサンダー教師の認定する権利やFMの著作権を引き継ぎ、パトリック=マクドナルドをアシュリープレイスに呼んで教師養成コースを継続しました。6その後バーモントは他の教師と「アレクサンダーテクニーク」の使用権や認定制度の権利で裁判となり、著作権以外は解放されることになりました。その後、英国内の教師たちの努力によってSTATがまとめ役となり、ATの学校基準が定められました。この裁判の詳細が今後公開されることになるのかわかりませんが、歴史の中では大きな意味を持つ裁判です。

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9. 劇場

アレクサンダーテクニークの成り立ちが演劇を元にしているだけあって、イギリスの演劇界ではアレクサンダーテクニークが採用されています。

失声という問題を解決する過程で発見した手法を徐々に発展させたアレクサンダーは、渡英後に脚本を共作したり俳優のレッスンや前述の演劇に出演もしました。

おそらく1910年の人類の最高遺産が出る前までは呼吸に関することが主な内容でした。

そこから意識調整を経て、アレクサンダーテクニークの基礎を作った教師養成コースが開始されます。

1930年代に教師養成コースの第一期生は「ベニスの商人」と「ハムレット」を公演しました。中には不満に思った練習生もいたようでした。

当時はOld Vicなどの劇場を借りて公演しました。現在は建て替えや修繕などで形が変わっているものがあります。

ロンドン滞在最後にはグローブ座で「ブーディカ」と「空騒ぎ」を観覧しました。両方ともステージの目の前で立ち見しました。

開幕前に話した人はニューヨークから来たそうです。もちろんグローブ座でもアレクサンダーテクニークが採用されています。

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10. ソールズベリー

スイング暴動の後、マサイアス・アレクサンダー(FMアレクサンダーの祖父)は、ウィルトシャー特別委員会がソールズベリー(ニューサラム)で組織されるまで裁判のために拘留されていました。特別委員会はソールズベリーのギルドホールで組織されました。

ソールズベリーにある大聖堂は1220年から1330年までに順番に建築されました。123メートルある尖塔はイギリスで最長らしいです。大聖堂ではマグナカルタが一般公開されていました。

訪れた当時のソールズベリーはちょっとした屋台みたいなものもありました。

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11. STATアーカイブ

STATアーカイブズを利用するために英国のアレクサンダーテクニーク教師組合の事務所に行ってきました。アポイントのためにやり取りしていた方はお休みで、別の事務局員の方が対応してくださいました。ビルの中にある事務所なので、外からインターホンで呼んで外の扉を開けてもらいました。今回の旅の中でこれは初めて。

STATが発行する会報誌をいくつか見ました。晩年のアレクサンダーから受けた生徒の報告記事などもあります。会報誌は会員かサポーターでないと手に入らないものです。それから帰り際に、アレクサンダージャーナルの1号と2号のコピーやいくつか書籍を購入しました。こちらは日本からでも購入できますが、支払い方法や手数料を考えると直接購入がお得でした。

STATはアレクサンダーの死後、1960年代にまとまり始めて成立した英国の教師組合です。教師組合の案自体は第二次大戦後からありましたが、アレクサンダーがそれを拒否していました。現在ではいくつかの国に提携協会がありますが、日本にはまだありません。またSTAT提携の学校を卒業しなければ会員にもなれないので、今後も関わりは歴史調査ぐらいでしかないでしょうね。

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12. ニューヨーク

9月末にイギリスを離れ今度はアメリカへ行きました。アメリカは、ニューヨーク、アーバナ、シアトルを訪問しました。ニューヨークに到着した日には、ブルックリン橋でデモ活動がおこなわれていたり、別の施設の前ではテレビドラマかCMを撮影していました。

アレクサンダーの歴史的なところで言えば、ニューヨークは第一次世界大戦以降、FMがアメリカに疎開した時の滞在先の一つです。イギリスに渡ったFMが教えた初期の生徒であるマーガレット・ナウムブルグが住んでおり、最初の世話役を彼女がしました。そして彼女の交友関係でジョン・デューイとFMは知り合うことができました。後に彼女はフリースクールを運営し、アメリカに疎開していたFM達もそこで教える機会がありました。

「人類の最高遺産」の改訂版が1918年に発売されましたが、そこで話題となっている子どもの学校は、彼女の学校のことだと思われます。ナウムブルグの著作には彼女と教授との会話の中でFMが登場しますが、それ以降あまり話題にあがりませんでした。アメリカでの生徒は、アカデミック関係が徐々に増え、科学調査をしたいという人もいました。しかし、FM自身が却下し、それらはことごとく頓挫しました。その後にウィルフレッド・バーロウ博士(イギリス)やフランク・ピアス・ジョーンズ博士(アメリカ)が科学調査をおこなっていき、多量の論文を発表しています。

ニューヨークのアレクサンダー遺跡は残っていません。WW2によって疎開していたころに彼が滞在していたホテルは別のホテルになっており、建て替えもされています。あるとすれば株式取引所です。彼は株でも儲けていたようですが、ウォール街ショックによる影響を受けました。

ボストンまで足を延ばせばストーの家や滞在していたホテルが残っていますが、今回は行きませんでした。

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13. FPJアーカイブズ

ニューヨークの学校が所有するフランク・ピアス・ジョーンズ・アーカイブズに行きました。もともとはタフツ大学に所蔵されていましたが移転することになり、彼らが購入したようです。ここには主に、アメリカで広がったアレクサンダーテクニークについての史料があります。

アーカイブの中には、ジョーンズとFM=アレクサンダーやマージョリー・バーストーとの手紙やバーストーのインタビュー記事などがあります。しかし、複写や書き起こしもできなかったため、現場で読むだけでした。手紙には1950年代に起きた裁判沙汰のことやFMがイギリスへ帰国した後に無許可でアレクサンダー学校を運営していた様子などが書かれていました。

お邪魔した学校の練習生たちは遠方から集まっており、訪問したときは学期末のような感じで、数日後にはお休みになっていました。ちょっとだけ授業の様子もみさせてもらいました。

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14. FMのアメリカ滞在

アレクサンダーはニューヨークにいるときに、株取引をおこなって資産を増やしていたようです。レッスン以外にもこのように彼は稼ぐために何かをやっていました。1929年のウォール街大暴落の時には少なからず打撃をうけたようですが、何とか家計はまわったようです。

第二次世界大戦中にイギリスに戻るまではマンハッタンにあるBlackstone Hotelに滞在していたようです。当時の写真は見つかりませんでしたが、データベースに載っています。

Blackstone Hotel

所在地まで行ってきましたが、建て替わっているのか現存しているのかはよくわかりませんでした。近くにはプラザホテルやセントラルパークがあります。

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15. アーバナ

ニューヨークの次はイリノイ州アーバナに行きました。Alexander's Wayの著者に会ってレッスンを受けました。彼はウォルター・カーリントンの学校の卒業生で、ATを学んだ経緯を教えてもらいながらのレッスンでした。レッスンを受けたあとは、アレクサンダー関連の資料を見せてもらいました。多くは所有しているものでしたが、その学校が独自に編集した冊子もあって興味深いです。いくつか資料もいただきました。

イリノイ州に寄った2つ目の目的は、デューイの書簡集を見ることでした。学生時代に学校の図書館にリクエストしたら、高いからダメだ、と言われ国内ではずっと見られませんでした。南イリノイ大学カーボンデール校の図書館にいくつもりで見れるかどうかと言わさせてみたら、電子版が近所の大学で見られるからこちらにくるより探してみたらどうだ、ということでした。それでアーバナ大学の図書館を調べたら、電子版が所蔵されており学内のパソコンから利用できることと一般の人でも図書館が利用できることがわかりました。

カーボンデール行きをキャンセルし、残りの滞在期間をデューイの書簡集を見るために過ごしました。アレクサンダーやFPジョーンズとの書簡があり、興味深いものです。『人類の最高遺産』にあるボーン・デューイ論争の後に書かれた、近年発見されたボーンの手紙もありました。しかしデューイが受け取ったかは不明です。

アーバナ滞在が終わったらシカゴに行きました。

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16. シアトル

アメリカの旅の最後にシアトルに行きました。シアトルに在住されているAT教師のキャサリン=ケトリックさんに会いました。彼女の作成したスタディガイドはアレクサンダーの本を読む教材としてお世話になっています。また彼女は第1世代の教師マージョリー=バーストーの合宿の世話役を長年勤めていらっしゃったと聞いています。

彼女のところへは全部で2日行きました。1日目は教師養成コースの授業に参加しました。国土の広いアメリカでは遠方の練習生も多いようで、今回の授業はスカイプを使っておこなうアレクサンダーの本に関するディスカッションでした。『いつでも穏やかに暮らすには』の「抑制」のところに関して議論しました。日本ではアレクサンダーの本を使って授業をしているところはATJ以外であまり知りませんが、他にどこかでやっているのでしょうか。読んだことがないとか知らない教師の方が会った中では人数的に多いです。来年にはFMの著作が全て日本語で読めるようになっていると嬉しいです。

二日目は声楽の人との授業にお邪魔しました。チェアワークとかライダウンとか手順から始まるのではなく、「今日は何したいか」という質問から授業は始まります。こちらではアクティビティを利用したワークをおこなっています。伝統的なスタイルで授業を行う学校とそうでない学校で比較されることが多くありますが、原理が理解されていれば手順でもアクティビティでもATというかFMのワークは学ぶことができると思っています。

ここでのミッションはもう一つ。『自己の使い方』にあるマージョリー=バーストー(マージ)の紹介文の著作権保持者を探すことでした。Centerline Press社はすでになくなっており、マージの著作権保持者も不明でした。出版社が出した本自体の著作権は切れていてもマージの著作権は生きています。結局、その場では解決できませんでしたが、今年の夏に保持者がわかり権利を得ることができました。

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17. シドニーでの調査

10月末にシドニーへ到着しました。シアトル滞在を短くしたおかげで、およそ1週間ほどの滞在ができました。

ここではATのレッスンとニュー・サウス・ウェールズ州立図書館に行きました。

レッスンはテーブルワークを受け、卒業生とチェアワークのエクスチェンジを少しだけおこないました。

図書館ではスチュワート=マッケイ医師とエクワイタブル・ビルディングについて探しました。マッケイ医師はアレクサンダーのロンドン行きを決めるきっかけを与えました。彼はFMの公演を観た後レッスンを手配しています。実はメルボルンの友人からFMを手助けするようにお願いされたようですが、彼は自分の目で見てから判断しようと考えていました。彼の手記には、この時期の二つの注目すべき出来事としてFMとの出会いが述べられていました。

エクワイタブル・ビルディングはシドニーに移住したFMが借りたスタジオです。このビルは現存しているものの、どの伝記にも写真が掲載されておらず、当時の広告の住所をヒントに探しました。区画整理で現在の住所とは違いましたが、無事発見することができました。このビルの天井にはステンドグラスが備え付けられており、第二次世界大戦で爆撃にあいましたが現在は修復されています。

もうひとつ、1902年に短い期間でしたがキャッスルリー・ストリートとハンター・ストリートの交差点にシドニー・オペラティック・アンド・ドラマティック・コンセルヴァトワールが開設されていました。建物は現存していません。

11月の2週目にはメルボルンに向かいました。

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18. メルボルンでの調査

FMアレクサンダーはメルボルンで俳優生活をはじめました。コンペティションに優勝し、いざプロとして活躍しようとしたところで失声になりました。おそらく当時の演劇訓練を基礎とした改善法に取り組んだと思われます。失声から回復後に公演活動をいくつかしました。その後タスマニアとニュージーランドでツアーをおこないます。

メルボルンに帰ってきたアレクサンダーは俳優と教師の2足のわらじをやっていました。自分を宣伝するためにツアーをメルボルンを中心に100km圏内の街でも公演活動とレッスンをしていました。彼が公演していたホールは今も健在で、今も多くの演劇が催されています。

彼が教室として借りていたオーストラリアン・ビルディングはすでに存在していません。しかし、彼がアマチュア時代に働いていたデパートのビルや楽器屋(現在は移転)が現在も残っています。

また、アレクサンダーファミリーの過ごしていた家は、現在は個人宅になっていますが、今も残っています。

そして毎年11月の第1火曜日はメルボルンカップで、正装した人たちが競馬場に集まります。アデレードに行く日がちょうどそのメルボルンカップでした。

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19. アデレード

メルボルンから電車に乗って11時間の旅です。この列車(Overland)は1887年からある路線で、おそらくFMが公演のためにアデレードへ行ったときは列車に乗ったでしょう。

サザンクロス駅のトイレの正面にあるLuggage Hallで荷物を預けた後に、近くのゲートでまっていれば、受付時間になると添乗員の方が立つので、印刷した予約表を見せてチェックインします。ここまでの手続きが日本語の情報では説明されていないので、多くの人は飛行機で行ったり軽装でいくのでしょう。

エコノミー席なので広くはありません。最終的にはカフェ車両に居場所をみつけてのんびり過ごしていました。到着したのは夕方でしたが、まだ明るかったので1時間ほどかけて都市部に歩いていきました。アデレードの中心部は公園に囲まれている特徴的な作りをしています。

この度の旅行期間、ほとんどをユースホステルに泊まり続けていたのですが、トラブルは多くなくとも起きており、今回は停電で遅くまで明かりがつかない状態になりました。

そして中心部から少し離れたところに、『Up from Down Under』の著者のところへ行きました。前年にFMのドキュメンタリーを購入していたことを覚えていてくれて、今回も歴史調査をしていると言ったら快く受け入れてくれました。2日間の訪問でしたが、お友達を紹介してもらい、ご飯もごちそうになりました。

ここでは音楽・教育・歴史関連の資料を小さなダンボール一箱分くらいいただけたので、アメリカで集めたものと一緒に日本に発送しました。

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20. ベンディゴ

メルボルンから北西に約150キロメートル、電車で2時間ほど言ったところへ、ニュージーランドリサイタルツアーから帰ったFMは自分の宣伝を含めてベンディゴへリサイタルをしに行きました。当時の新聞記事にはメイソニックホールでリサイタルをした後に2週間ほど滞在してレッスンをすると告知があります。現在メイソニックホールは名前を変えて美術館となっています。

ゴールドラッシュ時代には中国人移民も働いていたようです。中国文化が街中に残っています。街を一望できる展望台がありましたが、当日は風が非常に強く、揺れていました。

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21. ジーロング

メルボルンから南西にあるメルボルンでFM氏は療養をしました。失声をになる以前の話です。

伝記によると、FMは健康上の問題が生じたために、彼は療養生活をしながら当時メルボルンでしていた職と似たような職を探して生活をしていました。

もともと呼吸器系の弱かった彼なので、喘息のような発作が起きたのかもしれません。徐々に回復していることを確信した彼は3ヶ月の療養を終えてメルボルンに戻りました。

今回訪れたときには図書館の閉鎖日だったため、歴史調査はできませんでした。残念・・・。

彼の自伝ではブライトンに行ったと書いています。ジーロングとは対岸にある街なので、彼は思い違いしたのかもしれませんね。

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22. アレクサンダーファミリーツアー

タスマニア島では地元AT教師のデレクさんにお世話になりました。アデレードのロッスリンさんからの紹介です。彼はタスマニアのアレクサンダー家について調査している方でした。

メルボルンから出向した船は、デヴォンポートの港に翌朝到着しました。朝早くの到着でしたが、デレクさんが迎えにきてくださり、タスマニアについて話を聞きながらバーニーまで行きました。

現在タスマニアのアレクサンダー家は第8世代までいるようで、道すがらアレクサンダー家のお家やお墓を訪ねました。

しかし多くのFMアレクサンダーに関連する遺物は1880年代からのものなので、今はなくなっているか、個人の所有地のため立入禁止になっているようでした。

彼から自転車を借り、初日に周ったところをもう一度自分で行って写真なども撮ってきました。

最後にはアレクサンダー家の家系図と墓石の写真を含めたデータを貰いました。

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23. バーニー

タスマニア滞在の拠点はバーニーでした。ここにはFMのいとこが建てたホテルや親戚の家が残っています。アレクサンダーストリートもありますが、これは関係ありません。

バーニーの人口は2万人ほどで、ホバートに比べると10分の1です。もとはエミュベイという名前でしたが、VDL社(Van Diemen's Land Company)のディレクターのウィリアム=バーニーによって改名されました。

1894年のタスマニアツアーではタウンホールでリサイタルをしています。今は廃線となっていますが、ウォラタまで鉄道が通っていました。当時FMの家族達も乗っていたと思われます。

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24. ウィンヤード

ウィンヤードはテーブルケープから降りてきたFMが子供時代に育った町。もともとは小さなコミュニティでしたが、徐々に発展しました。イングリス側を挟んだアレグザンドリアはアレクサンダー家の土地です。

ホッグストリートにあったFMの家の向かいに小学校が建てられました。彼の兄弟は皆そこに通っていましたが、FMは途中で登校しなくなりました。当時の校長ロバート=ロバートソンは不登校を許し、FMの父親と取り決めをして放課後に個人教授をしました。そこで、算数・英語・聖書といった基礎的な学科を始め、シェイクスピアなどの演劇作品を学びました。学校を卒業後もロバートソンはFMの教育が必要と考えたため、アシスタントとして雇い、授業の手伝いと教育を1年ほど続けました。ロバートソンがイギリスに帰ることになったため、FMもは働きに出る決意をし、ウォラタへ行きます。

ウィンヤードで生活していた頃は、テーブルケープを馬でいったりきたいして、自然に近い環境で暮らしていました。病弱だったために主治医により食事の指導もありました。その主治医が住んでいたところは、今ではドクターズロックと呼ばれています。

1894年のツアーでもタウンホールでリサイタルをし、家族の前で演技をしました。

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25. テーブルケープ

2019年1月20日はFMの生誕150周年のお祝いがウィンヤードで催されていたようです。ウィンヤードの北部に位置するテーブルケープで1869年にFMは生まれました。両親の仕事の都合で町に降りてくるまで、自然が身近にあるような環境で育ちます。

イングリス側から北部はFMの祖先が所有していた土地で、テーブルケープの中でも大地主です。現在のように道は整備されておらず、川にある港から海に出て、沿岸部の町を行き来していました。

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26. ウォラタ

ウォラタは鉱山町として栄えましたが、現在は閉山されて小さな町となっています。タスマニアの中部から北上する高速バスが週に2回1往復するため、滞在していたバーニーからだと1日で往復はできませんでした。

利用者自体も少なく、事前に予約しないとウォラタは通ってくれません。FMは当時タスマニアで一番栄えていたこの鉱山町で、事務職で給料を得ながらアマチュア俳優の活動もしていました。他にも、馬主となって自分の競走馬がかなりいいところまでいったエピソードもあります。

ここではドイツからウォラタに移住してきた方とお話しました。冬は雪も積もるようでかなり寒いようです。

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27. ホバート

ホバートは、FMの祖父マサイアス=アレクサンダーが流刑で最初に到着した町です。彼の到着した1831年にはまだアボリジニが住んでいましたが、入植民によるアボリジニ狩りによって現在は絶滅してしまいました。

マサイアスを雇っていたヴァン・ディーメンズ・ランド会社は農業と牧畜を主に生業としており、ハンドルメーカーとしての手先の器用さで、牧場のフェンスを作ったりしたと思われます。

仮釈放を得てからは賃金を得ながらしばらく働いていました。釈放後は移民してきた親戚を頼ってウィックフォードで働きます。

ここにはFMの父ジョン=アレクサンダーの墓石もあります。

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28. ロンセストン

1984年のタスマニアツアーのときにFMはロンセストンのメカニクスインスティチュートでも公演をしました。

メカニクスインスティチュートは図書館や多目的ホールを兼ねた施設でした。現在では取り壊されて公立図書館となっています。当時の写真をみると、教会に隣接した建物だとわかります。その教会は現存しているため、場所の特定は容易でしょう。

クイーンビクトリア美術館にはタスマニア発展の歴史が展示されていました。

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29. サマーセット

サマーセットは、バーニーからウィンヤードに向かう途中にあります。

FMの母、ベツィ=ブラウンはここで育ちました。当時は川を利用した交易業をしており、今もその建物は現存して、個人所有の家となっています。

FMの祖母の墓石もこの町にありました。メルボルンに渡った彼女は後からやってきたFMと交流を再開し、彼女はタスマニアへと戻っていきました。

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30. 旅の終わり

ひとまずここまでで、回想録は終わりにしておきます。書いていないことは別に文章にまとめることで少しずつ発表します。

提供していただいた資料がとにかく膨大で、少しずつ整理を進めなければいけないことと、自分の理解したアレクサンダーのワークについて覚書を続けていく必要があると思っています。

各国では人種差別も未があることを実感しましたが、この旅でお会いした多くの方は親切にしていただきました。

旅の写真はインスタグラムにも載せています。

参考


  1. 2017年時点の情報です。 ↩︎

  2. 出国前にチケットの印刷やVISAチェックのお忘れにご注意を。 ↩︎

  3. 2017年時点の情報です。 ↩︎

  4. 2021年に伝記が発売されました。 ↩︎

  5. 南アフリカに移ったタスカー女史と交代でリトルスクールの校長となりました。 ↩︎

  6. 当初はゴールディ女史も相続人に含まれていたが書き換えられたようです。 ↩︎

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